今回、LOを読むまで、ロリコンを勘違いしてました。どうもすいませんでした。

 
エントリのタイトルは、「PRIDE 男祭り 2004 -SADAME-」で総合格闘家デビューを果たすも、戦前の強気な発言とは裏腹に納得いかない試合内容に終わった瀧本誠選手(アテネ五輪柔道金メダリスト)の、
 
「今日、試合するまで、総合格闘技をなめてました。どうもすいませんでした。」
 
というマイクの引用です。…分かりづらい! でも、今の気持ちにピッタリだったので、ここぞとばかりに使ってみました。
 
 
巷で話題のCOMIC LO 3月号を購入しました。
 

 
表紙のロリコンに、春は来ない。」というセンセーショナル過ぎるコピーが、強烈に目を引いた3月号。
 

 
最初は、ポップ・ミュージック史における「ロックは死んだ」(by ジョン・ライドン)みたいに、敢えてネガティヴなコピーを使用することで、それが却ってコマーシャリズムに作用するっていう効果を狙っているのかな、などと物凄くひねくれた見方をしていたんですが、
 
裏表紙を見て、
 
掲載されている漫画作品を読んで、
 
編集後記を読んで、
 
ロリコンに、春は来ない。」っていうコピー…というか、メッセージの本当の意味を理解した時、ちょっと感動しました。
 
ハードコアパンクニューウェーヴ・ミュージックが好きで、プロレスが好きで、MMAが好きで、ホラー映画やアメリカのインディーズ・ムーヴィーが好きで…という、ロリコン漫画と同様にメインストリームからは光が当たりづらい文化を偏愛する人間の端くれとして、「LO」という雑誌を構成している編集者や漫画家さんや読者の真摯な気持ちと決意が伝わってきて、グッと胸に込み上げてくるものがあったんです。
 
あぁ、自分はこの雑誌を手に取るまで、何にも分かってなかったのだな、と。
 
そうです。実際、何にも分かってなかったのだと思います。
 
 

■「ロリコン」はギャグだと思っていました。

そもそも私は、成年向け漫画でいえば、工藤洋先生やオノメシン先生のファンであり、アイドルでいえば、ほしのあきさんや乙葉さんのファンであり、学生の時分はビデオゲームの「ザ・キング・オブ・ファイターズ」で毎回毎回、不知火舞とシェルミーとブルー・マリーでチームを組み、分かる人には分かるコアなOVA「菜々子解体診書」の主人公、七千草菜々子のフィギュアを、発売当時買うか買うまいか真剣に悩んでいた、かなり恥ずかしい類の人間です。
 
…その…ですから、つまり…自分の女性に対する容姿のタイプっていうのはアレですよ、アレ。……察してください。
 
ですので今まで、私は、ロリコン」というものは、ギャグだと思っていたのです。
 
だってアレです、自分の中でロリコンのイメージっていったら、田丸浩史先生の「ラブやん」のカズフサであり、松林悟先生の「ロリコンフェニックス」であり、小野寺浩二先生の「ロリータ番長」なわけです。
ラブやん(1) (アフタヌーンKC)

ラブやん(1) (アフタヌーンKC)

ロリコンフェニックス 1 (角川コミックス ドラゴンJr. 103-1)

ロリコンフェニックス 1 (角川コミックス ドラゴンJr. 103-1)

いずれも、「ロリコン」をギャグの文脈で消化しているギャグ漫画であり、「ロリコン」という性癖、嗜好の特殊性を笑いに昇華しているコメディー作品の数々です。(ちなみに、「ロリコンフェニックス」では、「LO」がギャグのネタになっていたりします)
 
インターネットを始めてからは、ネットの世界に「『ようじょ』とか『ょぅι゛ょ』って書いておけば、笑いがとれる」みたいな…「ロリコン」って言っておけば、キャラクターとしておいしいし、ギャグになるっていう空気みたいなものを(勝手な思い込みですが)自分は感じていて、要は漫画やネットで「ロリコン」っていうのは、そういう芸風としての要素が強くて、イデオロギーみたいなものとは無縁のものなんだろう、と。
 
つまり、自分は、本当のロリコンや、そういった嗜好に基づいた作品っていうものに接したことがなかったわけです。
考えてみれば、自分の目に入る範囲での、「ロリコン」「ロリコン的なもの」っていうのは全て、コメディー、ギャグの文脈の上に成立しているものしかなかったんですよね。ですので、ロリコンの人たちや表現に対して、行き過ぎた嫌悪感を感じることもなければ、そういう性嗜好を持った人たちの苦しみとか、自制心っていうのを想像したこともありませんでした。
 
よく、テレビのバラエティー番組で、同性愛者やアブノーマルな趣味を持つ人を、ギャグやコントのモチーフにしている場面を目にしますが、目線としては正にあんな感じです。
 
ああいう表現って実は、セクシャル・マイノリティーや特殊な性癖を持つ人を、ネタにすることによって、自身の理解の範疇にまで、なんとか落とし込もうとしているんですよね。人間は、自分が理解できないもの、しかも「性」という極端にデリケートなものに対しては、なかなか真っ向から対峙することができないものです。そこで、ああいう「お笑い」という文脈で消化することによって、とりあえずスカす、というか、核心の部分からはある程度距離を置いた状態で、「理解しているんだぜ?」というポーズをとろうとします。
 
もちろん、それが前述した作品のコメディーとしての質を貶めるものでありませんが、「ロリコン」が最先端のサブカルの一種として成立していた80年代の構造が、様々な事件や法規制によって崩壊した後、「ロリコン」もこういう「笑い」の方向に転化することで、なんとか表現として続いていた、というふうに私は思うのです。
 
で、話は今月号の「LO」に戻るわけですが、「LO」って今まで自分が見てきた「ロリコン」とは趣が全然違うんですよ。
 
 

ロリコンじゃない人間から見る「COMIC LO」

ロリコンに、春は来ない。」という今号のキャッチコピーに象徴されるように、「COMIC LO」という雑誌は「ロリコン」をギャグ、笑いの文脈で消費すること、パロディ化することを避けているように思います。
代わりに、ロリコンロリコン表現を市場に流通させることに対して、自身のイデオロギー、信念を掲げることによって、その存在意義を創り出しているように思うのです。
 
例えば、「LO」のイデオロギーや信念は、雑誌の中の意見広告や編集後記などで、非常に明確な文章として毎号掲げられます。
 
以前、掲載作品や単行本のネット上への違法アップロードに対する意見を載せたこともありまして、今号では、その広告によって表れた結果について言及がなされています。このように、「LO」という雑誌は、ハッキリした形で雑誌の指針や方向性を読者に対して提示する、という特徴があるのです。
 
私には、こういったLOの編集指針が、「笑い」「コメディー」という表現に逃げ込むことなく、ロリコン文化に対しての整理とロリコン嗜好を持った人々への啓発活動として機能しているように感じます。
 
この「法や一般社会から規制の対象に晒されているものが、その実、良識派のオピニオン・リーダーとして機能している」という構造は、見ていて非常に興味深い。自分には、その対立概念が、典型的なカウンター・カルチャーの構造を連想させます。
 
ロリコン」は、人間の多種多様な性のあり方の一つであると同時に、その特殊性ゆえに、決して声高で権利を主張することが許されないモノです。ですので、ロリコンの人たちは、法や社会の良識と向かい合いながら、自身の理性を常に働かせておかなければならない、という宿命にあります。
 
「LO」は、「笑い」や「ギャグ」でそうしたロリコン嗜好、表現の宿命をうやむやにするのではなく、真正面から向かい合って、取り組んで、社会との折り合いを付けようとしているに私は感じられるのです。
また、漫画やアニメの表現は、「ロリコン」的なファクターが割合多く見られる文化であるにも関わらず、それをギャグで包み込むことによって、「後ろめたさ」みたいなものから目を逸らしてきた部分があるわけですが、漫画の表現としても、そうした「後ろめたさ」に真っ向から取り組んでいる「LO」の姿勢は、私のような人間からみても、やはり惹かれるものがあります。
 
「後ろめたい」ジャンルだからこそ、「語る」必要に迫れたのかもしれませんが、それでも、そういう真摯な姿勢が読む人の心を打つのかな、なんて。
 
明確なイデオロギーを持ち、出版界の中でも得意な表現を行い続ける「COMIC LO」。メタや自虐に逃げず、ロリコンであることの苦悩や罪悪感に、真正面から立ち向かっている人たちがいるのだから、私たちもそういった活動を「笑い」や「嘲り」の対象にすべきではないと思います。
 
それって、ゲイやドラァグ・クイーンを、テレビのバラエティでギャグの対象にするのと同様に、問題から目を背けて、物事の本質をすり替えているのと一緒だから。何の解決にもならないですからね、それでは。
 
でも、やっぱり、ロリコンっていうのは社会通念上、決して許されないわけで……う〜ん…。
 
…と、まぁこういう具合に、我々にとっても「考える」機会を与えてくれるのが、「LO」の凄い所ですよね。これからも、目が離せないです。