「宇宙をかける少女」と「オタクが考える物語」

 
■宇宙をかける少女につきまとう違和感について仮説(karimikarimi様)
 
id:karimikarimi様の「宇宙をかける少女」に対するエントリを拝見して、とてつもなく感銘を受けたので、私も本作に対しての感想と妄想を、一言二言、書き残しておこうと思います。
 
 

■「宇宙をかける少女」という作品について

上記のエントリでも言及されているように、確かに、「宇宙をかける少女」は、スペースオペラ的なSF(…多分)にも関わらず、劇中での説明や演出の不足が目立ち、そのせいで視聴者をしばしば混乱に陥れるアニメ作品です。
 

まず、全体的に説明が無さ過ぎる。世界観やキャラクタの行動原理やらの説明があまりにもおざなりだ。私はいまだに、主人公がレオパルドに協力する理由が分からない。(やりたい事が特に無いから、とかなのか?)大きな目的や目標を提示されず進めすぎな気がする。世界観も、シムーンばりに訳が分からない。権力側の機構構造や権威も全く持って分からない。学園とか、財閥とか、生徒会とかの立ち位置も全然分からない。
 
特殊能力やロボットにしても、それがどれぐらいの力を持つかとか、どれぐらい特殊なものなのか、重要度とかが提示されていない。
 
宇宙をかける少女につきまとう違和感について仮説(karimikarimi)

 
それは単純に、脚本や演出の構成がまずいだけなんじゃないか、と思われるでしょうが、私も、この「不足」や「違和感」というのが、作為的に起こされているように感じるのです。
 
この「作為」を特に強く感じたのが、第9話「Q速∞」というエピソードです。
この第9話は、本編の世界感、時間軸を一旦離れて、登場するキャラクター達が別世界で、超能力を駆使した野球対決を行うという二次創作的なエピソードなのですが、この第9話が放送されたのが、本編で主人公が対峙すべき敵の正体をおぼろげながら知り始め、「獅子堂財団」という組織の目的やレオパルドの正体など、放送開始からずっと続いてきた謎が、ちょっとずつ明かされ始めた辺りなんですね。
 
ようやく、「宇宙をかける少女」といアニメの本質が見え始めてきたのかな? と、視聴者が思い始めた辺りで、突如挿入されたのが「Q速∞」な訳です。
 
 
 
その「Q速∞」も、おふざけで半端に作っているのかというと、そうではなく、わざわざ世界観やキャラクターをまとめたHPを作ったり(今なら、壁紙ももらえるよ!)、劇中でQTという超能力への説明台詞があり、QTの扱いが非常におざなりだった本編を補完する形になっていたり*1と、なかなか手の込んだ作りになっています。
 
■燃えろ、QT!! Q速∞
 
こうした物語の構造は、やはり作為的に視聴者に混乱を与えるために行われているように、私には感じられます。
 
…と、以上が、私の「宇宙をかける少女」に対する、現時点での感想文です。以下は、私の「じゃあ、何故そんなことをするのか?」という妄想になります。
 
 

■オタクの暗喩としてのレオパルド

宇宙をかける少女」の、この独特のドラマ作りに対して考える際に、私が注目したのが、コロニーを統括する人工知能のキャラクター、レオパルドの存在です。
 
レオパルドのキャラクターは、「宇宙をかける少女」の中で、ステレオタイプなオタク、引きこもりの暗喩として描かれているように思うのです。
 
ペットボトルの蓋やトイレットペーパーの芯など、他人から見たら無価値なモノを収集し、自分のテリトリーからは一歩も出ようとせず、自分のこだわりや興味のあるものに対しては潔癖ですが、それ以外の物事に関してはホトホト無頓着。自意識過剰でプライドが高く、他人に対しては高圧的に接するものの、怒られると瞬時に萎縮してしまう臆病な心の持ち主です(自身の身体よりも遥かに小さく、性能も劣るはずのメイドロボ「イモちゃん」に叱責され、怯む様が劇中では一種の「お約束」になっています)。
 
レオパルドをオタク、しかも「嫌われるタイプのオタク」の典型として描く、これらの露骨な描写に注目してみると、「宇宙をかける少女」の世界は、また違った見え方をしてきます。
 
 

■「宇宙をかける少女」と「オタクが考える物語」

宇宙をかける少女」には、ロボット、コロニー、数多くの美少女キャラクター、お色気、怪獣、幽霊、退魔アイテム、超能力バトル、二次創作的な番外編などなど、物語での関連性や説明を無視したかのような数多くのアイテムやガジェットが矢継ぎ早に登場し、視聴者の思考能力が追いつかなくなる程のスピードで目の前を通過して行きます。
 
これって物語を考えている時の、「オタク」の思考そのものではないでしょうか。
 
私たちアニメファン、漫画ファン、あるいはゲーム好きでも映画好きでもいいんですが、そうしたファン層が、ふと思い立って、小説や脚本を自分で書いてみるとします。
 
ところが、話を考える段階で、「ストーリー」というよりは「アイテム」や「キャラクター」について考えるのがとても楽しくなり、ストーリーラインや設定といった物語の背骨となる基本構造はおざなりになってしまう。結果、細かい枝葉の部分にばかり情報と思考が集中してしまい、いつまで経っても物語は完成せず、頭の中やノートに物語の一部分を夢想するだけで終わってしまった……なんてこと、一度でも自分なりに小説や脚本を書こうとしたことがある人なら、経験があると思います*2
 
でも、それって悪い事でもなんでもなくて、物凄い楽しい行為なんですよね。物語がおざなりになっていても、一つ一つの要素がバラバラで統一感がなくても、アイテムやキャラクターを拙いながらも自分なりに考える、これって、やっぱりとても楽しいことです。
そして、この「物語や統一感がなく、何だかよく分かんないけど楽しい」っていうのは「宇宙をかける少女」という作品にも通じるところがあります。
  
宇宙をかける少女」に感じる違和感の正体って、この辺りに起因しているんではないかな、と私は思うんですよ。
 
キャラクターとしての具体的なオタクの暗喩がレオパルドならば、「宇宙をかける少女」の世界観やストーリーは、「物語」というものに対するいかにもオタクっぽい思考方法の暗喩なんじゃないのかな、なんて私は思うのです。それが、あの世界のモヤモヤ感や居心地の悪さ、なのに何故か見ていて楽しいっていう、「宇宙をかける少女」への不思議な雰囲気に繋がっているのではないのかな、と。
 
そして、その暗喩を描くために、わざわざ物語の構造をグチャグチャにかき回しているのではないか、とすら私には思えるのです。
 
 

■まとめみたいのもの、というか更なる妄想

宇宙をかける少女」の物語は今後、主人公獅子堂秋葉の成長物語として機能していくと思います。そして、私が思うに、それと並行して、レオパルドの成長も描かれていくのではないでしょうか。
 
嫌われるタイプのオタクの暗喩として描かれているレオパルドと、如何にもオタクっぽい整合性を無視した一連の世界観は直結していて、レオパルドの人間的(あるいは、「好かれるタイプのオタク」への)成長に従って、その「宇宙をかける少女」の世界は徐々に整理され、明示化されていくんじゃないのかな、なんて。
 
恐らく、劇中で幾度も描写される、秋葉の「やりたいことが見つからない」ことと「『宇宙(そら)をかける少女』というキーワードの不明さ」という、2つの答えが見つかった時に、「宇宙をかける少女」は一つの整合性を持ちえるのでしょうが、個人的にはレオパルドの描写に注目をしながら、「宇宙をかける少女」を見ていこうと思います。
 
あと何故か、自分は秋葉でも、ほのかでも、いつきクンでもなく、ミンタオとブーゲンビリアのコンビが好きなので、その辺にも注目をして観ていきます!

*1:まぁ、もしかしたら「Q速∞」のQTと、本編のQTは全く別物なのかもしれませんが…。

*2:オタキングこと岡田斗司夫さんや、評論家の東浩紀氏も、学生時代にSF小説を書こうとして、似たような理由で挫折してしまった経験をエッセイに記していた記憶があります。