「スイートプリキュア♪」の世界にbloodthirsty butchersの音楽は流れているか? - 「スイプリ」に感じる違和感と「kocorono」

  

 
皆さん、スイートプリキュア♪ご覧になっていますか? 勿論、私は毎週観ています! だって、プリキュア大好きだもの!
 
主演声優に私の大好きな小清水亜美さんと、折笠富美子さん。そして、敵役には、これまた自分の大好きな声優さんである堀内賢雄さん!(そして、豊口めぐみさんも!) 前作のハートキャッチプリキュア!から心機一転。自分がプリキュアシリーズの中でも、特に好きなフレッシュプリキュア!を思わせる高い等身でのキャラデザに、ポップでキュートなOP曲とED曲、そして劇中での熱いBGM…と、もう何ていうか「好き!」になる要素しかないスイートプリキュア♪」なんですが…たった一つ、たった一つだけ自分にはどーしても気になって仕方がない、どーしても拭い去ることのできないモヤモヤ感と違和感が、あのアニメにはあるんです。
 
だもんで、その辺について今回のエントリではアレやコレやと…。正直、難癖みたいな感じの感想文なので、ご覧になって余り気持ちの良いエントリではないかもしれませんが、個人的に「スイートプリキュア♪」というアニメのイチファンとして、現時点での違和感について思うことをちょっと書き残しておきたいと思います。
 
 

■メイジャーランドとマイナーランド。その対立構造の違和感。

喜びと幸福をもたらす音楽を司るメイジャーランド。世界の平和は、メイジャーランドに流れる音楽によって守られていたが、そのメイジャーランドと対立を成す国…嘆きと悲しみの音楽に満ちたマイナーランドの王、メフィストの策略によって、大切な「伝説の楽譜」が奪われかけてしまう。
メイジャーランドの王女、アフロディテは、この世を悲しみで支配しようとするメフィストの野望を阻止しようと音符を人間界に散逸させることで、この危機を乗り越えるが、メフィストは自身の腹心であるセイレーンを人間界に送り込むことで音符を我が物にせんと企むのだった…。

 
スイートプリキュア♪」の物語の導入部ではこのようなものです。
「スイプリ」の世界では、「喜び」を司るメイジャーランドと、「悲しみ」を司るマイナーランドという二つの国が存在し、その両国の間で過去から現在に至るまで、何かしらのコンフリクトが起きている。その結果、世界に喜びをもたらす音符が人間界に散らばり、その音符をマイナーランドの手から守り、世界の平和を守る為に、伝説の戦士プリキュアとしての使命が、響と奏、二人の少女に託される…というのが主なストーリーラインとなっています。
 
「音楽」を物語に中心軸に据えた新しいプリキュア、それが「スイートプリキュア♪」…。音楽好きな自分からしたら、もう本当に堪らない、大好きなテーマとモチーフを用いた作品です。だけど、どうしても…どうしたって、この一点だけが引っ掛かる。
 
その一点というのは、「悲しみ」と「嘆き」ともたらす音楽と、その音楽を司るマイナーランドを「悪」として物語の中にレイアウトしてしまう、そんな「スイプリ♪」の世界観に対する疑問符です。
 
「メイジャーランド」と「マイナーランド」。この二つの国の名前は、音楽の和音…明るい響きを持つ「メジャーコード」と、メジャーコードに比べると暗く、もの悲しい響きを持った「マイナーコード」から取られているのでしょう。
メジャーコードは明るいから正義で、マイナーコードは憂いを持っている暗い音だから悪。音楽における陽と陰、メジャーとマイナー。その両者をアニメの中で対立構造として用い、明るいメジャーコードを正義の戦士であるプリキュアの側に持ってくることで、劇中でのヒロイックなイメージを強調する。
  
うん。確かに、凄く分かりやすくて、いいアイデアだと思うんです。だけど、音楽を好きな自分の手前勝手な意見を言わせてもらえると、マイナーコードを、悲しみや憂いを持った音楽を「悪」にしてしまう「スイプリ」の世界には、やはり大きな違和感と、自身の音楽観との間にある大きな隔たり、ギャップを感じてしまいます。
恐らく、その違和感やギャップというのは、「音楽に、音に対して『善』『悪』という両極端なイデオロギーを投影し、それらを対立させる」という物語構造の基盤そのものに対する反感とエモーションなのでしょう。
そして、そこから描かれる「悲しみ」=「悪」という正義と悪の構造についても、自分なんかは何とも言えないしこりみたいな感情を抱いてしまうのです。
 
果たして、悲しいことって悪いことなのか? そんなに単純に切り捨てて良いものなのか? と。
 
 

■音楽と悲しみと…。bloodthirsty butchersと「kocorono


 
ここで、話は日本のロック・ミュージックについてシフトするのですが…。先日、映画館でロックバンド、bloodthirsty butchersの活動を追ったドキュメンタリーkocoronoという映画を観てきました。
 


 
ロック、パンク、ハードコア、エモ、オルタナ…様々な音楽的語彙とカテゴライズによって、結成から現在に至るまで、そのヒストリーとサウンドを語られ…そして、結局はどんな言葉やジャンルにも括ることができない孤高のバンド、それがbloodthirsty butchers
自分は、そんなブッチャーズの大ファンの一人なんですが、その大きな魅力の一つが音に託された万感の「悲しみ」なんですよね。
 


 
決してポップじゃない、明るくもない。むしろ、深い悲しみと憂いを携えていて、だからこそ、他のどんな曲よりも、どんなバンドが紡ぎだす言葉と音よりも力強い響き、ニュアンスを持ったブッチャーズのサウンド
メジャーコードではなくマイナーコード(というか、vo.&gt.の吉村秀樹氏による独特過ぎるオリジナルな弦の押え方によるコード進行の数々)を多用したブッチャーズの「音楽」は決してポップでもなければ、明るくもないかもしれない。でも、確かにそこには幸福なメロディが存在していて、聴けば聴くほど力をもらえる、前向きな気持ちになれるんです!
 
そんな唯一無二なサウンドを作り出すbloodthirsty butchersの活動は…決して、順風満帆なものとは言えません。それは、この「kocorono」という映画を観れば良く分かる。
アルバム制作、ライブ活動といった「音楽」に専念した活動が経済的に厳しくなりかけていること、メンバー間での軋轢や目指す音楽性の違い…20年以上にも渡るブッチャーズの活動が、実は極めてギリギリのバランスで成り立ってきたことが、この映画の中では赤裸々に描かれます。
でも、それでもメンバーはバンドを続ける、音楽をクリエイトする、ステージに立つことを辞めようとしません。
 
bloodthirsty buthcersの音楽を聴いて、この「kocorono」という映画を観て…一つ思うのが、「音楽」を「楽しい」とか「悲しい」とか「善」だとか「悪」だとか…そんな二元論で割り切ることは不可能なのだ、ということです。
悲しみがあるからこそ、人生に幸せや楽しみがあるように、メジャーコードとマイナーコードが合わさって数々の名曲が生まれたように…決して、その両者は隔てられるものではないし、本来ならば切っても切れない表裏一体の存在であるハズ。
 


 
スイートプリキュア♪」の世界観に対する何とも言えないモヤモヤ、その輪郭をハッキリさせてくれたのがブッチャーズの音楽と「kocorono」という映画。うん、悲しみって悪じゃないし、音楽に善とか悪とか…そんな簡単に割り切れるものじゃないと思うんです。ブッチャーズが悲しみ、悩みの中から、凄まじい熱量を持った名曲の数々を生み出したように。
 
明るく楽しい音楽だけが肯定され、悲しく暗い音楽は否定される…そんな「スイプリ」の世界に対する違和感。果たして、bloodthirsty butchersサウンドはあの世界に流れているのか? 「なんだかかなしい」や「7月」や「Jack Nicholson」のモノ悲しく、センチメンタルなイントロは流れているのか、そして吉村秀樹の歌声は聴こえているのか?
 
…そういうもどかしさなんですよね。自分が「スイートプリキュア♪」の「音楽」に抱く感情って…。
 
 

■まとめ

kocorono」という映画の感動に絡めて、「スイプリ」に対する妄言をいつも以上にアレやコレやと書いてみましたが…まぁ、子ども向けのアニメ番組だと、「善」と「悪」や「楽しい事」と「悲しい事」みたいな相反する二つの要素を単純化して見せる、届けるっていうのは非常に重要なことだと思います。それっていうのは、大人になった自分の目や感性では、もう受け取ることができないし、見えないものなんだと思います。
 
でも、自分はどーしてもそこに割り切れない違和感を感じてしまうんですよ。
その辺の違和感さえ除けば、本当に…本当に、歴代のプリキュアシリーズの中で、一番好きだし、おもしろいと思うんで「スイートプリキュア♪」。OPもEDもBGMも…歴代のシリーズで一番好きです。だからこそ、そのモヤモヤし感情が喉に刺さった小骨のように気に掛かるというか…。そりゃ、こんな駄文にもなっていない駄文を書き連ねて、自分のスタンスを書き残しておきたくなりますよ! だって、音楽もプリキュアも大好きなんだもの!
 
取りあえず、メイジャーランドとマイナーランドの人たちは、お互い食わず嫌いをせずに、明るい音楽も悲しい音楽も「音楽」として同じくらい愛すること! あと、アフロディテ様は、お願いですからメフィストさんと、もっと仲良くしてください!