「まどマギ」「悪魔のいけにえ」「スカーフェイス」…"顔"を使って演出する残酷さのインパクト

 

 
私は、魔法少女まどか☆マギカの熱狂的なファンではないのだけれど…という前置きをした上で、これからのエントリを書き進めていきたいと思うのですが、本作に対して特別な愛着を持たない自分みたいな人間でも、観返す度に強い衝撃と大きな感心を同時に抱いていしまうワン・シークエンスがあります。
 
それは、第3話「もう何も怖くない」で、巴マミが命を散らすシーン
 
説明不要かもしれませんが、このエピソードの中で敵役として登場をする"お菓子の魔女"シャルロッテに頭を食いちぎられるシーンですね。どうして、このシーンがこんなにも自分に迫ってくるのかと考えたんです。勿論、そこにはストーリーライティングの部分であるとか、「魔法少女アニメ」のダークなパロディたる「まどマギ」の作品性であるとかが積み重なった上での"衝撃"が大前提としてある。
 
で、そこに加えてその"衝撃"を…巴マミというキャラクターが死ぬ際の見せ方というか、演出、コレが抜群に上手くいっていて、それが本シークエンスにとてつもないインパクトを与えることに成功しているんじゃないかと私は考えるわけです。今回のエントリでは、ちょっとその辺についてアレやコレやと書いてみたいと思います。
 
 

■残酷なシーンを直接的に描かない残酷さ

私が、このマミさんが死ぬシーンで、一番凄いと思うところは残酷な描写を用いながらも、その残酷さを決して直接的に描いていないところです。
 
この一連のシークエンスというのは、先ず「シャルロッテがマミさんの頭部に噛み付きそうになる」「まどかとさやかの顔のアップ」「シャルロッテがマミさんの頭に食らい付く」「マミさんの魔法が解けて、リボンで拘束されていたほむらが解放される」「マミられる」「再び、まどかとさやかの顔のアップ」といったカットの積み重ねによって構成をされています。
 

 
この見せ方というのが、もう憎々しい位に上手い。観ていて腹立たしくなる程、テクニックもセンスも抜群だと思うんです。
 
例えば、このシーン。マミさんの切断をされた頭部そのものであるとか、激しい血飛沫のような"具体的"な残酷描写がされていたとしたらどうでしょう? ビジュアルのグロテスクさによるインパクトは生み出すことができたでしょうが、ここまでの衝撃は決して描き切れなかったのではないでしょうか?
 
これは、杏子やさやかが死ぬシーンとマミさんが死ぬシーンを比較してみれば分かりやすい。前者は、キャラクターの心身が傷付いたり、肉体がグロテスクに変化をしたり…といった描写をもっとストレートに使っていましたからね。しかしながら、多くの人にとってより衝撃性の度合いが強かったのは、やはりマミさんの死の方ではないかと思います*1
 
このマミさんの死のシークエンスが凄いのは、そういった直接的な残酷描写を用いずに、断片的で抽象的なカットをレイアウトすることで、観る側の恐怖感や不快感といったイマジネーションを刺激し、よりインパクトのある"残酷さ"を描いている部分ではないかと思うのです。
 
 

■"悲痛や恐怖で歪む顔"のインパク

特に、インパクトがあるのが、目の前でマミさんがブルータルに散るのを目撃した、まどかとさやかの恐怖に満ち満ちた表情です。可愛らしい女の娘の顔が悲痛と恐怖で歪むのを観て、我々は彼女たちが感じたフィーリングを自分たちの感性にフィードバックします。そして、それこそがより衝撃性の強い残酷さを生み出す。このシーンでのまどかやさやかの苦痛の表情というのは、我々の恐怖感を映し出す鏡になっており、ややサディスティックではありますが、それは観客への非常に洗練された"恐怖"のプレゼンテーション方法なんだと思います。
 
"怖いモノ""残酷なモノ"あるいは"不快なモノ"は…具体性のあるものよりも、ある程度抽象的なものの方が、より人間の心理に切迫してくるものです。例えば、狼男やフランケンシュタインのような具体的な形状を持ったモンスターの絵を見るよりも、何か真っ黒で不気味なモノが描かれた抽象画であるとか、漠然とした闇であるとか…を見る方が、人は大きな恐怖感を抱くことがままあります。ですから、この「まどマギ」の一連のシークエンスに関しても、血飛沫であるとか肉片であるとかの直接的な描写ではなく、悲痛な女の娘の表情の方が、より一層のインパクトを与えてくれたのではないかと。
 
そう考えると、この「まどマギ」のマミさんの死というのは、コンテの段階で完全にインパクトが確立されているというか…徹底的に計算をした上で創られている印象を受ける。また、こういった見せ方というのは非常に映画的だと思うんです。ちょっと、表現のフィールドを映画に移して、更にアレやコレやと書いてみたいと思います。
 
 

■「悪魔のいけにえ」は、殺人シーンをストレートに映さない

アニメでキャラクターが死ぬシーンを描く際に、そのキャラクターが死ぬシーンを直接描写するのではなく、その場面を目撃した人間の恐怖や悲痛、悲しみといった表情にフォーカスをすることで、よりその"死"のインパクトを強調する。そうした描写というのは、ここで語っている「まどマギ」に限らず、他の作品でも目にすることができる技法であり、衝撃性を演出するのに最も効果的なテクニックの一つではないかと思います。
 
そして、コレはアニメに限らず映画やドラマなんかでも用いられる方法論です。そういった描写が、作品内で特に印象的な効果を上げている作品の好例として、先ずトビー・フーパー監督の悪魔のいけにえの名前を出したいと思います。
悪魔のいけにえ」は、チェーンソーを持った殺人鬼が次々に人を惨殺していくスプラッター・ホラーですが、劇中で描かれる残忍極まりない殺人方法に反比例するように、実は、直接的なグロ描写というのはほとんど画面に登場しません。
 

 
例えば、このシーン。食肉加工用のフックに吊るされた女性の目の前で、殺人鬼が男性をチェーンソーで解体していくというショッキングなシーンですが、ここでも例えばチェーンソーで切り刻まれる肉体であるとか、大袈裟に吹き飛ぶ血飛沫のようなスプラッター描写は用いられていません。代わりに、フックに吊るされた女性がその痛みと、目の前の悪夢のような出来事に恐怖し、絶望し、泣き声と怒鳴り声と叫び声が複雑に入り混じったような金切声をヒステリックに上げ続ける…という描写を行っています。
 
コレなんかは、もう如何にも恐ろしい。ホラー映画の世界では、行き過ぎたスプラッター描写が、いつしかギャグの一種として用いられるようになったわけですが、この映画の中ではそういった恐怖感や絶望を一種の愉悦として消化するような甘えが一切許されない。スプラッター・ホラーとしてはミニマムな描写が、マキシマムな恐怖を生み出す、という奇跡のような作品。それが「悪魔のいけにえ」という映画の凄いところなんです。
 
 

■「スカーフェイス」で、悲痛に顔を歪めるアル・パチーノ

悪魔のいけにえ」に続いて、これまた"顔"を使って、作品内の残酷なイメージに問答無用の説得力を持たせた映画作品を。
私が大好きな映画なんですが、ブライアン・デ・パルマ監督のスカーフェイスは、キューバからの難民、ボート・ピープルとしてアメリカに流れ着き、そこから裏社会のドンへと成り上がっていくものの、最期は呆気なく全てを失う男のハードコア過ぎる一代記でありギャング映画の金字塔的な作品。
フィルムのどこを切り取っても、「金」と「クスリ」と「汚い言葉」と「銃」と「暴力」が焼き付けられている。いわば、不良映画の中の不良映画。この映画の中で、アル・パチーノ演じる麻薬王、トニー・モンタナは、ある種の男子にとって「タクシードライバー」のトラヴィスや「マッドマックス」のマックスなんかと同様の憧れと畏敬の念を持たざるを得ない映画界のダーク・ヒーローです。
 
そんな「スカーフェイス」の序盤で、麻薬の取引でハメられたアル・パチーノの目の前で、仲間が生きたままチェーンソーによって四肢を切断されるという超ヴァイオレントなシークエンスがあります。
 




 
そして、この時もカメラは切断される肉体を直接的に映すのではなく、成す術もなく仲間を惨殺されるアル・パチーノの表情をフィルムに収め続けます。誰よりも度胸が据わっている悪漢の中の悪漢、トニー・モンタナの表情を歪ませる程の残忍な殺人ショー。この時のアル・パチーノの表情を観て、この映画のファンはその異常性と暴力性に改めて恐怖を感じるわけです。
 
スカーフェイス」は劇中で飛び出す"FU×K"という台詞の多さでギネスブックに載っていたこともある超暴力的な映画です。その逸話とストーリーに違わず、劇中ではハードコアな殺人描写や激しい銃撃戦のシーンが幾度も登場します。
 


 
ところが、そんな映画の中でも、この序盤のチェーンソーのシーンというのは、やっぱり別格なんです。それっていうのは、やっぱり、この"顔"で見せる残忍性、"表情"で演出する暴力性…という部分がかなり大きいのではないかと思います。
 
肉体の破壊描写のようなストレートな表現ではなく、それを目撃した人間の顔によって、より切迫感のある残酷さを作り出す。「悪魔のいけにえ」や「スカーフェイス」で、非常に印象的に使われていた表現方法が「まどマギ」のマミさんが死ぬシーンでも用いられており、それがあのようなインパクトを生み出した一因にもなったのではないかと私は思っています。
 
 

■まとめ

まどマギ」と「悪魔のいけにえ」や「スカーフェイス」を同列にレイアウトして語ることに、若干の申し訳なさを感じつつも…しかしながら、この"顔"を用いた婉曲的な残酷描写の表現、そして、それがより大きな衝撃性に繋がるという意見を一度テキストでアウトプットしておきたかったので、今回のエントリを書かせていただいた次第です。
 
もっとも、こうした描写は他のアニメ作品でも目にすることができる(しかも、もっとずっと古くから)ので、何を今更感満載、そしてツッコミどころ満載で申し訳ないのですが、個人的には「まどマギ」のあのシーンを観て一番最初に連想をしたのが、「悪魔のいけにえ」での解体シーンだったんです。で、そうした部分も含めて、私は「魔法少女まどか☆マギカ」というアニメ作品を非常に良く出来たホラー映画だと思っています(何か、上から目線の偉そうな書き方でスイマセン…)。
 
例えば、物語序盤のキュゥべえの目的も分からぬまま日常に溶け込んでくる感じであるとか、暁ほむらのミステリアスな存在感であるとかは、非常にホラー映画的であるし、このエントリで書いたようなホラーとしての演出術の数々というのも結構な数が見受けられる。本作にまつわる、そういったエッセンスの数々というは、このエントリの序盤に「「魔法少女まどか☆マギカ」の熱狂的なファンではないのだけれど…」と書いた自分のような人間のハートにもガンガン突き刺さってくるんです。
 
いつか、「ホラー映画ファンから観た『魔法少女まどか☆マギカ』」みたいなエントリも書いてみたいんですけどね。「ほむらのいけにえ」みたいな。
 

*1:とはいえ、この辺は、ストーリー面での展開なんかも観る側の感性や情緒に多大な影響を与えていると思うので、単純な比較は難しいとは難しいとは思うんですが…)