くろ「正しい彼女の愛し方」から考える、エロ漫画の説得力

 
最近読んだエロ漫画の中で、とても興味を惹かれた一冊があったので、感想なんかを書いてみようと思います。
 
テーマがアレなんで、以下収納です。
 
 
今回取り上げるのは、エロ漫画の中でも、比較的特殊な性癖である「SM」をテーマにした作品です。
 
いや、正直SMって「嘘」だと思ってたんですよ、私。
 
成年漫画でも、官能小説でも、アダルトビデオでも、SMの世界っていうのは大抵の場合、加虐者として男性が、被虐者として女性が描かれていて、暴力を孕んだ性行為の果てに女性がマゾヒストに調教されて堕ちる…みたいな描き方がほとんどです。
 
もちろん、世の中にはSM行為を通して性的な快楽や愛情を感じる人が確かに存在するわけで、そういう人たちの趣味嗜好を否定するつもりは全くないんですが、少なくとも漫画や小説、映像媒体で描かれる加虐・被虐の関係っていうのは、男性側から観た一方的な視線に基づいたものであって、それは嘘だろう、ファンタジーだろう、なんて思っていたんです。
 
「性」を描いている商品の多くはそうなんですが、いくらなんでも男性性の傲慢さが如実に表れすぎだろう、と。
 
で、そんな自分が読んで、とてもおもしろいと思ったのが、G-WALKから発売されている、くろ先生の単行本「正しい彼女の愛し方」です。
 

 
実は、これ女性の作家さんが描いた漫画なんですね。
 
女性作家さんの描くエロ漫画、SM漫画って、レディースコミックの世界ではごくごく当たり前の光景なのかもしれませんが、くろ先生は「comic moog」(現在は、「COMIC PLUM」に誌名を変更)という男性向けエロ漫画で作品を発表されていたんです。で、くろ先生の作品って男性視点からのエロスが掲載作品の大半を占めている同誌面の中でハッキリ言って浮いていたんですね。自分はその「浮きっぷり」に興味をそそられて単行本でまとめて読んでみたら、SMに全く理解がない自分が読んでも、とてもおもしろかったんですよ。
 
漫画の中では、登場する女性キャラクターに対して、加虐の限りが尽くされるんですが、女性の身体への痛めつけの描写に加えて、蛸やナメクジなんかの軟体生物(蟲)や食べ物を使った、人によっては生理的に受け付けないようなエグい性行為までが描かれます。
 

 

 
女性に対するサディスティックな行為も、見ていて相当に痛々しいです。単行本の主軸となっているSMものに加えて、強姦モノが2本収録されているのですが、そちらで描かれる、女性の心身に対する倫理観を一切無視した虐待の数々たるや凄まじく、読んでいると暗く荒涼とした描写に心が荒んできます。
 

 
正直、読む人を選ぶ一冊です。
 
人によっては、「うわっ! 何だ、コレ!? 気持ち悪い!」っていう反射的な反応だけで終わってしまうかもしれない。
ただ、そういう「作品を受け入れられない」というリスクを背負ってまで、こうした描写を行う作者の姿勢が、私は興味深いと思ったのです。
 
私自身、そういった描写に対して、性的な嗜好があるわけではないので、最初は単純に軽い嫌悪感を感じていました。
ただ、不思議とそうした行為の数々に必然性というか、妙な説得力を、読んでいる時に感じていたんですね。
それが、どこに起因しているのか、というのを自分なりに考えてみたんですが、私が本作に感じた「必然性」「説得力」は、以下の二点から生じているように思います。
 
 

■「女性が描く」という説得力

物語は、サディストの男性と、マゾヒストの女性の愛の物語として進行します。
 
おもしろいのが、どんなに、残酷な行為が行われようと、物語のラストは二人がそれぞれの愛の形を確認して幕を閉じるんです。
結末が近くなるにつれ、加虐者と被虐者という関係性を一瞬忘れてしまいそうになる程、少女漫画のように無邪気な「恋愛」が描かれていきます。
 

 
やっぱり、こうした描写やストーリー展開に、自分は「女性らしさ」みたいな作家性を、本作に感じるんですよね。
一般的にはアブノーマルな行為でも、本作品に登場する男女にとっては正常な愛の確認方法というか、必然的な行為であるという前提に物語を描いているわけで、男性視点からの一方的で都合のよい暴力を介した作品(そうした作品も、必要としているマイノリティがいる限り、みだりに否定するわけにはいかないのですが)とは、やはり趣がちがうのではないかな、なんて。
ですので、前述したレイプものの漫画二編に関しては、自分は余り興味を感じませんでした。展開も結末も、余りにも絶望的で、そこに暴力を超えたおもしろさ、みたいなものを見出すことができなかったからです。
 
また、女性の立場から描かれているゆえに、暴力を内包する男性性の傲慢さに対しての緩衝材にもなっているという側面もあると思います。
 
ちなみに、くろ先生はBlogや漫画の中で自身の表記をアルファベットに変換する際、ローマ字で「KURO」ではなくChloeという表記を当て字的に使用されています。
で、この「Chloe」っていうのが、何が意味があるのかなと自分なりに調べてみた(と、いってもGoogleで検索をかけた程度ですが…)のですが、この「Chloe」の発音は「クロエ」であり、ヨーロッパの女性名であるようです。
同名の女性向けファッションブランドも存在する上に、「ダフニスとクロエ」という古代ギリシアのロマンスに登場する主人公の女性の名前でもあるようです。へ〜。
 
う〜ん…やはり、この辺のセンスにも、作者の女性性に対する意識みたいなものを感じる、と言ったら考え過ぎでしょうか?
 
 

■「作品に対する真摯さ」という説得力

先ほど、本作におけるSM描写や暴力に対して「必然性」「説得力」という言葉を使いましたが、それを強く感じたのがカバー裏に書かれた作者からのメッセージを見た時です。SM漫画云々ではなく、「創作」とか「表現」とかについて、それを享受する立場にいる私たちにとっても、なかなかに考えさせられる内容ですので、ちょっと引用をさせていただきます。
 

ずっとずっと気付かずに仕事としてネームを切り、仕事として作画する日々を数年過ごしマシタ。「これは仕事」というのが口癖、というか何かそんな感じだったと思います。

 
「漫画家」という職業に対する、くろ先生の当時の率直な意見です。「仕事」として割り切ることで、漫画を描いていた日々。そんな日々の中、ある日転機が訪れます。新しくついた担当さんに、こんな事を言われたそうです。
 

担当氏が発した初めの言葉が「本当に好きなモノ描いてマスカ?」デシタ。色んな指定をされることが多い中、これは極めて聞いたことがない言葉で耳を疑ったのを今でも覚えていマス。「本当に好きなモノ描かないと、いい作品になりませんから、エロい作品になりませんから。」と担当氏。さらに耳を疑うワタシ…!「本当に好きなモノを描いていいんですね?」……と念を押した後、私はこの単行本に載っている記念すべき「好きなモノ」を描き始めたのデシタ。

 
本作以前のくろ先生の作品を私は知らないのですが、現在のSM路線は、この「方向転換」によるものなのでしょう。
自身の「好きなモノ、描きたいモノ」を書き始めた、くろ先生。一気に、枷が外れたのか、時には暴走してしまい、たしなめられることもあったそうです。
その結果、
 

そんなこんなで今回の単行本に載っているのは、自己的趣味180%妄想爆発エロ(ときどき抑制されたモノ含む)のオンパレードとなっておりマス。
(中略)
最高に気持ちよかったデス!!! 中には「蟲キショイ」とか「食べ物粗末にするな」とか本当におっしゃる通り……という意見もありマシタ。あえてそれは否定しませんが、私の中の最高のエロが描けたと思っておりマス。

 
という感想を、メッセージとして単行本に残されています。
 
作中でのハードな描写の数々が自身の妄想によるモノ…というのも驚きですが、自分が、この文章を読んだ時に感じたのは、単純に「いい話だな」というのが一つと、物語に流れる暴力への「必然性」「説得力」っていうのが、こういうところに起因していて、見るものに訴えかけてくるのではないかな、ということです。このエピソードには「マイノリティな世界で理解者に出会い、自分を開放できた」という単純な美談以上の意味と価値があるのではないか、と。
 
「女性」ということもあるのかもしれませんが、くろ先生は作品以外でも「語る」ことによって、その魅力を増す作家さんではないかな、と思います。
活動の中心である「comic moog」の後継誌「COMIC PLUM」では「くろのジバクダン話室」というコラムも連載されています。ここでも、やはり「作家性」みたいなものが垣間見えて興味深いです。自身の漫画に登場するモチーフに関しての素材集めに対して、こんな文章を書いています。
 

……これが、なかなか素材集めが大変なんデス。ゴーヤを描いた時はデスネ、それまでゴーヤなんて買ったことがなかったもので、売り場でゴーヤの形を選んでいる私の様子が異様だったのか、それともゴーヤを見ながらハアハアしてたのがバレたのか、となりにいたオバアサマに「あなた沖縄の人?それどうやって食べるの?」と、聞かれてアタフタしたことがありマシタ…。
(中略)
またある時は、生のタコを一匹買ったのデスガ、サテ、どうやって処分するの…? となり、大変困ったこともアリマス。作品というのはデス、こういう苦労の元に……いや、ゲッフン…多分私くらいデショウネ……orz なんかリアリティ…とか思って、ここまでやるの…orz

 
漫画の作風を象徴するような自虐的、かつ、語尾にカタカナを多用する独特の文体のせいで、コミカルな印象を受けますが、何でしょう? この辺りに、作品に対する真摯な姿勢を感じるは私だけでしょうか?
アブノーマルな作風にも関わらず、こういう切実さみたいなのが、やはり作品の魅力に繋がっているのかな、と。
 
ちなみに、くろ先生は、このコラムで自己紹介を行っているのですが、
 

・実は心理士
・M属性
・精神年齢3歳
・脳年齢82歳

 
との一文を書いています。「実は心理士」っていうのが…。そもそも、サディズムマゾヒズムも、元は心理学用語(ですよね?)なわけで、う〜ん……もしかしたら、くろ先生の漫画って、想像以上に深いところから来ているのかもしれないです…。
 
 

■「説得力」に満ちたエロ

SMに限らず、「性」「エロ」の世界で描かれるものは、多種多様で、100人いれば100人それぞれ異なった「性」の姿があるわけです。
例え、それが世間一般では「アブノーマル」と呼ばれるものであっても、理解する人が極々限られたマイノリティなものであっても、それを必要としている人がいる限り、社会規範に反しない限り、否定するべきではないと、私は思います。
 
また、一見すれば、理解しがたい趣味・嗜好であっても、そこに「必然性」みたいなものが感じられる限り、それはやはり表現としておもしろい。
作者さんの姿勢であったり、作り手の「性」が赤裸々に垣間見える瞬間っていうのは、そうした作品に対する「必然性」「説得力」が最も色濃く感じられる瞬間だと思います。
 
そしてそうした作品は、例えテーマとして描かれている性嗜好を持ち合わせていない人間の目から見ても、やはりおもしおりですし、興味をそそられます。
 
性嗜好がどんどん多分化され、様々な作家さんがご活躍されている今だからこそ、こういう「説得力」に満ちたエロ漫画は、今後どんどん増えていくかもしれないですね。
 
 
 

■おまけ

「正しい彼女の愛し方」を読んでいて個人的に一番おもしろかったのが、調教される側の女性の心理や快楽を、フォントを使って表現した、以下のシーンです。
 

 
SM漫画に対して知識が乏しいので何とも言えないのですが、初心者の自分がパッと見で、凄くインパクトを感じたシーンなんですよね。
 
漫画なのに、複雑な心理を字で表現することで明快に示しているのがおもしろい。「官能小説」とか、やっぱりSMって文学と相性がいいんですかね?