エロ漫画が描く、「物語」と「キャラクター」について考える

 
■エロ漫画のキャラクタはなぜ二次創作されにくいのか(karimikarimi様)
 
(なんか、karimikarimi様には、続けざまにトラックバックを送っちゃってますね……こんな駄Blogからスイマセン……。)
 
上記のエントリが、とても面白かったので、自分なりに考えたことを書いてみたいと思います。
 
エロ漫画の話題なので、一応隠しておきますね。
 
 
私は、二次創作という分野に関して、それ程知識や情報量を持ち合わせていないのですが、成る程、言われてみればエロ漫画のキャラクターを使った同人誌やイラストって、ほとんど見かけない気がしますね。
 
「なぜ二次創作されにくいのか」については、上記のエントリにて、karimikarimi様が鋭い考察を行っていらっしゃるので、ここはちょっと視点を変えて、エロ漫画が描く「物語」と「キャラクター」にピントを絞って、自分なりにその魅力を語りつつ、「何故それが、二次創作と相容れないのか?」を考えてみたいと思います。
 
 

■エロ漫画の「物語」を考える

ただ単に劇中の性的描写だけでなく、他にもエロ漫画には様々な魅力があります。
 
その一つが、エロ漫画における「物語」、ストーリーの部分でしょう。
基本的に、「エロ」さえ描けば、あとは割かし自由なジャンルなので、純愛、コメディー、ホラー、サスペンス、SF、アクション、ファンタジー、などなど…「漫画」の、ありとあらゆる物語表現が行われるのが、エロ漫画の面白さの一つです。
とは言っても、その表現の特性上、エロ漫画のほとんどは短編で、更には性的描写にコマとページ数を大量に割かなければなりません。そうした物語を紡ぐ上で、厳しい条件ながらも独自の進化と表現を行ってきたのがエロ漫画というジャンルです。
 
そうした独自の進化と表現を端的に表しているのが、エロ漫画における「オチ」の巧みさです。
 
ある時は、ラストのコマをギャグで巧みに落とし、読者を爆笑させ、
 
<大道いむた / いもうとマニア道2>

 
また、ある時は、カップルの恋愛模様をひたすら甘く描き、
 




 
時には、センチメンタルなエモーションたっぷりに物語を締め、
 
<海野螢 / 星空のたか鬼>

 
また、その物語は、読み手の心に暗い影を落すようなペシミスティックな結末を迎えたりもします。
 
<鬼束直 / Scar Tissue>
 

 
先ほども書いた通り、エロ漫画のほとんどが短編で、しかも性描写が、その大部分を占めているにも関わらず、その見せ方は、実に見事なものです。
 
ショートフィルムのような映像の分野でも、「オチ」を重要視し、その表現が特化するという傾向が見られますが(例えば、世界中の名だたる映画監督が集結して製作された、オムニバス映画「パリ、ジュテーム」における幾つかの短編のように)、エロ漫画の、物語の結末に特化した作風は、ページ数であれ、時間であれ、何かしらの制限がある中で生まれた表現と言えるでしょう。故に、エロ漫画で描かれる物語は、そのほとんどがハッピーエンドであれ、バッドエンドであれ、漫画としては明確な「完結」を迎えます。
 
そして、エロ漫画において、二次創作を行う上でネックとなるのが、この物語の完結性だと思います。
エロ漫画の結末は巧み過ぎるが故に、第三者によって物語の改変を行う隙間のようなものが存在しないのです。
 
90年代に大ブームとなった「新世紀エヴァンゲリオン」などは、こうした傾向の対極と言えるでしょう。テレビアニメの本放送で描かれた、その物語のラストは、当時ファンの間で大論争を巻き起こし、結末に納得のいかないファンの多くが同人誌やネット上のSSという形で自分たちなりのエヴァのラストを描こうとしました。
 
エロ漫画には、こうした二次創作的な物語や視点が入り込む余地がないのです。
 
エロ漫画と同じく、成年向けのオタク表現である、エロゲー美少女ゲームの世界では、エロ漫画とは対照的に二次創作が活発に行われています。これは、「マルチエンディング」のように、結末が幾多にも分かれえる「ゲーム」というシステムの特性と、そこから生まれる物語の多様性に強く結びついているのではないでしょうか。
 
こうした、二次創作に対するエロ漫画の間口の狭さは、登場するキャラクターに関しても当てはまると思います。
 
 

■エロ漫画におけるキャラクターを考える

エロ漫画は、その表現の特性上、漫画の中で「性」を描く必要があります。
「性」という人間の一番根本的かつ究極的な繋がりを漫画の中で描くわけですから、そこで描かれるキャラクターが、ストーリーの中で、他のキャラクターと結ばれるには、強い説得力が必要になってきます。
 
<あまあま / 趣味>

 
写真は、女の子と男の子の恋模様を甘〜く描くエロ漫画家、ペンネームもズバリ「あまあま」先生の「趣味」という短編の一シーンです。
この女の子が付き合っている男の子にベタ惚れなのが、見るからに伝わってきますね。
 
このように、エロ漫画に登場するキャラクターのカップリングには、最初から強い必然性があるわけです。
 
ここにもやはり第三者の二次創作的な目線や思考は入る余地がありません。
アニメや漫画を見ていて、「×××と△△△は付き合えばいいのに」なんて思うことが多々あると思いますが、こういうキャラクター同士のカップリングを考える楽しさ、二次創作の意欲となる妄想の取っ掛かりみたいなものが、エロ漫画には少ないのです。
 
二次創作が活発なジャンル程、こうしたカップリングを考える楽しさを、受け手に上手く与えているような気がします。
特定のカップルを作ることをボカして描いたり、ヒロインを多数登場させたり、サブキャラ同士のカップリングに含みを持たせたりするのです。
 
もしも、エロ漫画が同じ事をしてしまったら、物語のテンションは一気に下がってしまうでしょう。
エロ漫画は、「性」を描く漫画だからこそ逆に、男女(あ、モノによっては、男男とか女女の場合もあるのか)の関係性に関してはストイックにならざるを得ないのです。
 
例えば、karimikarimi様のエントリでも、「愛すべき素敵なキャラクタ」の例として挙げられている、「キャノン先生トばしすぎ」のキャノン先生
 
<ゴージャス宝田 / キャノン先生トばしすぎ>

 
彼女が、主人公である貧太以外の男性と付き合っている様なんて、ちょっと想像できません。
勿論、カップリングを考えることが二次創作の全てではありませんが、こうした隙間や余地っていうのが、やはり他のオタク文化に比べると、少ないのではないかな、という気がするのです。こうした部分も、熱を持ちにくい一因になっているのではないかな、なんて。
 
 

■まとめみたいなもの

物語であれ、キャラクターであれ、エロ漫画は表現として完結し過ぎて、そこに二次創作的な視線が入り込む隙や遊びのようなモノがないのではないか? というのが、私の考えです。
 
これは、悪く言えば表現として「閉じている」と言えるのかもしれませんが、一方で、その閉鎖性の中で表現を磨いてきたからこそ、現在のエロ漫画の多様性と魅力が花開いているとも言えます。
 
そして、私は、そんな表現を生み出す漫画家さんが描いた、エロ漫画が大好きなのです。
 
 
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