ゼロ年代のスタンダードからズレた明るいコミュニケーション観「ミラクル☆トレイン〜大江戸線へようこそ〜」

 

 
昨年末、毎週毎週楽しんで見ていたテレビアニメミラクル☆トレイン〜大江戸線へようこそ〜。常にこちらの予想の斜め上をいく驚愕の展開と、ビザールな世界観で我々を惹き付けて止まなかった本作の魅力を、作品全体の印象を自分なりにまとめつつ感想文として書き残しておきたいと思います。
 
以下、本文は最終回のネタバレを含んでいますので、お気を付けください。
 
 

■「ミラクル☆トレイン〜大江戸線へようこそ〜」の基本構造

ミラクル☆トレイン〜大江戸線へようこそ〜」は、本当に不思議な作品です。
先ず、その基本設定が何とも不可思議。主人公は、都庁前新宿六本木両国汐留月島という地下鉄大江戸線の各駅を擬人化した、いずれも美顔、美麗なスタイルを持つ男性キャラクターです。
彼らが乗っている「ミラクルトレイン」は、「悩みを持つ淑女だけが乗車できる」という不思議な電車。各エピソードはオムニバス形式で、毎回このミラクルトレインに乗車してきた女性キャラクターの悩みを、地下鉄や駅周辺の街に関するトリビアルな豆知識を絡めながら解決していく様が描かれていきます。
 
美麗な男性キャラクター達によるサービス精神旺盛なコスプレ姿や、地下鉄が突如として地上や海の上を走り出すといったぶっ飛んだシナリオ展開、それぞれにキャラが立っていてる登場人物たちによる軽快な掛け合いなどなど、所謂「乙女系」というジャンルに属している作品だからといって、男性のアニメファンが敬遠してしまうのが勿体無いくらい本当に見所に溢れたアニメ作品なのですが、数ある魅力的な要素の中でも、私が「ミラクル☆トレイン〜大江戸線へようこそ〜」で最も強く惹かれていたのが劇中でのキャラクター同士によるコミュニケーションの描写です。
 
 

■明快で楽天的なコミュニケーション観

前述したように、「ミラクル☆トレイン」のストーリーの主軸は、女性キャラクターの心の内に秘めた悩みを、駅たちが解決していくというものです。
しかしながら、この悩みというのが曲者で、ミラクルトレインのメンバーたちは超常的な存在とはいえ、地下鉄に乗り込んできた淑女の悩みが何なのかまでは事前に把握することができません。彼女たちとコミュニケーションを取って、その悩みが何なのかを理解し、最善な解決方法を共に模索していく必要があるのです。
また、厄介なことにミラクルトレインに一度乗車をしてしまうと、悩みが解決するまで地下鉄から降りることができなくなってしまうという制約すら存在します。
 
仕事、恋愛、友人との人間関係、親子の断絶、人に言えない自身の嗜好といったように、各エピソードに登場するゲストキャラクターの悩みは様々ですが、それらを地下鉄の中や駅周辺の街といった限定的なロケーションの中で、大江戸線の駅たちと密なコミュニケーションを相互に取り合う(その過程は、専ら駅たちとのデートという形によって劇中で描かれます)ことによって、心の奥底にある真の悩みの存在が浮き彫りになっていき、徐々に解決に向っていく様が描かれます。
 
そして、そこには非常に楽天的かつアッケラカンとしたコミュニケーションの肯定の意思表示が行われているように思うのです。
 
仕事に対する考え方の違いで友人との関係がギクシャクしてしまった占い師、好きな人に想いを伝えられない大学生、父親の過度な愛情による支配から逃げ出した大金持ちのお嬢様、自身のファンシーな趣味を恋人に打ち明けられずに悩むサラリーマン。各エピソードで描かれるゲストキャラクターたちの悩みは、ミラクルトレインの中での駅たちとのコミュニケーションによって解決され、悩みの元となっている停滞した人間関係の打破や、修復が行われていくのです。
 
 

■00年代のスタンダードと相反するコミュニケーション描写

2000年代におけるサブカルチャーの中で描かれたコミュニケーションの多くは、その相互性の不全や諦念、そこから生じる痛々しさやコンフリクトが大きなテーマとなっていたように思います。アニメや漫画といった物語も例外ではなく、コミュニケーションの持つ不可能性にスポットライトが当たることが多かった。
そんな中で、「ミラクル☆トレイン〜大江戸線へようこそ〜」が物語の中で紡いでいく、屈託のない万能感に満ちたコミュニケーションの姿からは、非常に明るく力強い印象を受けます。
勿論、こうした邪気のないコミュニケーションの全肯定には危険性も内在しています。人によっては、軽率で浅薄なキャラクター描写と取られてしまうかもしれませんし、この屈託の無さを欺瞞と感じてしまう人もいるかもしれないからです。
 
しかしながら、それでもなお、ユニークなギミックや魅力的なキャラクター達が多数登場する「ミラクル☆トレイン」という物語と、その中で描かれる前向きで力強いコミュニケーションの肯定には、多くの人を惹き付けるパワーがあります。
そして、その作品内での哲学が最も端的に現れていたのが、やはり最終回でのシナリオ展開と言えるでしょう。
 
最終回では、車内でガイド役を務めていた少女であるあかりが、実はミラクルトレインの中でイレギュラーな存在であったことが判明し、事態の解決のために彼女を記憶を消そうとする車掌と駅たちの間で衝突が起こります。そして、その結果あかりは駅たちの力を借りて自己のアイデンティティーを取り戻し、本来の自分が生きていた時間に帰っていくのです。
この感動的なシナリオと、EDの背景で流れる各話のゲストキャラクターたちが過ごす「その後」の姿には、その明るいエネルギーが最も色濃く出ており、本作の魅力が存分に詰め込まれた、非常に素晴らしい最終回でした。
 
 

■まとめ

人間関係やコミュニケーションの不全を描くことがイコール作品の持つメッセージ性の強度やリアルさに直結していた印象を受ける2000年代のサブカルチャー。そこから素晴らしい作品が数多く生まれ、いくつかの大きなオルタナティヴ(傍流)を派生させたのは事実ですが、時には「ミラクル☆トレイン」のようなアッケラカンとした明るさに満ちたコミュニケーションを描いた作品もあって良いと思うのです。
 
00年代は終わり、ティーンズと呼ばれる"2010年代"が既に始まりました。その転換期となったクールに「ミラクル☆トレイン」のような作品が、しかも「乙女系」と呼ばれるジャンルの中から出てきたのは個人的に非常におもしろい事象でした。そして、願わくばこの作品のエッセンスが何らかの形で2010年代のアニメ作品に受け継がれていくことを望んで止みません。
 
 
 
<関連URL>
■『ミラクル☆トレイン〜大江戸線へようこそ〜』について〜限定される物語とその解体〜(あしもとに水色宇宙)