ガス・ヴァン・サント「パラノイドパーク」

 

 
DVDでガス・ヴァン・サント監督の「パラノイドパーク」を観ました。以下、ちょっとネタバレありの感想文です。
 

家庭環境にこそ少しばかりの欠落があるものの、ごくごく平凡な少年アレックスは、不良的なモノへの憧憬と小さなスリルを求めて、スケーター達の溜まり場「パラノイドパーク」でのスケートボードに熱中する日々を送っていた。
そころが、ある日ほんの些細な偶然の積み重ねから人を殺めることになってしまい…。

 
パラノイドパーク」には、同監督の「エレファント」「ラスト・デイズ」といった作品と同じく、映像的、音響的な実験がふんだんに盛り込まれているように思います。今年、劇場で観たガス・ヴァン・サントの最新作「Milk」が比較的ストレートな表現を用いた映画だった為に、よりそういった印象を強く受けました。
 
といっても、劇中に登場する映像や音による物語や心理描写の暗喩の数々は案外に分かりやすく、単純に映画的な美しさも持ち合わせています。
しかしながら、物語の時間軸を複雑にシャッフルした物語の構成によって、観ている側は常に映画から不安定な印象を受け続けることになります。この不安定さこそが、殺人を犯した主人公の心の揺れ動きと混乱の直接的な表現になっているのでしょう。
 
殺人を犯したとはいえ主人公は極々平凡な少年であることに加えて、映像と音響を効果的に使用した暗喩の数々を劇中で反復することによって、主人公への感情移入を観る側が容易に行えるように作ってあるため、前述したような映画の中の不安定さはとにかく観ていて非常に息苦しく辛いものがあります。
 
映像表現は本当に美しく、巧みなもので、それ故に主人公が犯す「罪」の不条理さが際立つ構成になっています。
例えば、劇中で台詞を喋っている人間ではなく第三者のみを映し続けたり、主人公が別居している父親と会話を交わすシーンでは主人公のみにカメラのピントがあたり、父親のそれは常にボケていたりする。こうしたコミュニケーションのちょっとした「ズレ」を表現した映像の数々が、そのまま「事件」につながっているようで、とにかくやるせない。
 
ほんのちょっとした「ズレ」が積み重なって悲劇の引き金になる…。という点において、私は「パラノイドパーク」を観ていて、黒澤明監督の「野良犬」を連想しました。
あの映画でも、小さな社会のズレや軋轢が積み重なって、極々平凡な男が強盗殺人を犯すまでに転落してしまう。「野良犬」のラストで、三船敏郎演じる刑事に捕まった男は自身の行いを振り返り、号泣し嗚咽を漏らします。「どうして、こうなってしまったんだろう?」と。
 
パラノイドパーク」の主人公は、最後の最後まで悩みや恐怖を己の内に抱えたまま沈黙を続けることになります。
いっそのこと、人生の不条理に対して呪い、叫び、嗚咽の声を上げればどれだけ楽だったかもしれない。物語の終盤で、主人公が自身の気持ちを第三者に伝える術が提示されますが、これだけがこの映画の唯一の救いだと思います。
 
90分程度と、ガス・ヴァン・サント監督の作品にしては尺は短めですが、かなりヘヴィーで濃厚な作品です。余り積極的に人に勧める気にはなりませんが(どうせなら、人間の勇気や団結を非常にポジティヴに描いている「Milk」を勧めたいです)、観た後に「ズシン」と確かな何かが残る、そんな映画でした。