"ズレた"人にとっての「犬ハサ」のユートピア、「ワタモテ」のリアリズム

 

 
7月から始まったアニメ作品の中で自分が非常に対照的な作品だな、と捉えているアニメがありまして、それっていうのが犬とハサミは使いよう私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!の2作品。
 
どちらもコメディ作品ではあるんですが、その笑いの方向性というのが非常に対照的でおもしろいと感じています。この2つのアニメ、私が住んでいる東京都下ではそれぞれTOKYO MXテレビ東京で同じ月曜深夜に放送をされていまして、その辺も自分の中でこの2つを見比べてしまう要因になっているのかもしれないんですが、それにしたってコメディー、ギャグをクリエイトするセンスが「犬ハサ」と「ワタモテ」は正反対で、それが凄く印象的。
 
今回のエントリでは、この2作品の"笑い"についてアレやコレやと書いてみようかと!
 
 

■アッパーな「犬ハサ」、ダウナーな「ワタモテ」

そもそも、"笑い"というのはスタンダードからのズレによって生まれるものではないかと思います。例えば、お笑い芸人さんの漫才やコント、例えば、コメディー映画の主人公、あるいはギャグ漫画、ギャグアニメ、コメディーチックなライトノベルのキャラクター達。彼らの言動というのは一般人のそれとはズレている。当たり前のことを当たり前にやらない、こちらが予期せぬ思わぬ行動を取る。彼らの言葉や行動は、"ズレて"いるからおもしろい。この辺りは、お笑いの批評なんかでも軸になることが多い、凄くトラディッショナルなコメディー論であり、笑いを作る際のベーシックな手法です。そして、「犬ハサ」でも「ワタモテ」でも、やはり登場キャラクターの言動というのは、どこかズレています。
 

 
例えば、「犬ハサ」のハサミを振り回し、前身黒尽くめで加虐趣味を持つ夏野霧姫、その夏野に折檻を受けて恍惚の笑みを浮かべる担当編集者の柊、極端にネガティヴな思考の持ち主である大澤映見…などなど。主人公の和人からして、"殺されて犬に生まれ変わってしまった高校生"というぶっ飛んだ設定のキャラクターですが、その彼の周りにいる登場人物たちは、それ以上に一癖も二癖もある"変態"ばかり。
 

 
そして、この「犬ハサ」と比較して考えてみたい「ワタモテ」。"ズレている"のは、「ワタモテ」の主人公である黒木智子…通称もこっちも一緒もです。「ワタモテ」では、そんな彼女が所謂"リア充"に近づこうとして空回りをし続けたり、見栄を張って付いた嘘で後々、自身の首を締めてしまう、失敗をしてしまう様がコメディータッチで描かれています。
 
「犬ハサ」に出てくる変態さん達も、「ワタモテ」のもこっちも、世間一般での常識や行動様式からはズレた人間、スタンダードから外れたオルタナティヴなキャラクターの持ち主であることは確かです。だけど、両作品の笑いの方向性というのは大きく異なる。一言で言えば「犬ハサ」はアッパーで、「ワタモテ」はダウナー
笑いの描き方を観てみても、凄く対照的で「ワタモテ」は自虐的なネタをロジカルにやっているのに対し(毎エピソードで、オチに至るまでの伏線の描き方なんかも非常に丁寧ですよね)、「犬ハサ」はもっと直情的かつ暴力的というか、「細かい理屈とか理論とかは抜きして、とにかく"変態"はおもしろい!」という一方向に突き抜けたアグレッシヴなポジションでギャグをやっている印象を受けます。
 
アッパーな「犬ハサ」とダウナーな「ワタモテ」。どっちが良い悪いではなく、優れている劣っているという話でもありません。ただ、同時期に放送をスタートした2本のコメディーアニメ。その笑いの方向が、ここまで別れたというのは個人的には非常に興味深いポイントで。
 
 

■「犬ハサ」のユートピア、「ワタモテ」のリアリズム

「犬ハサ」と「ワタモテ」の笑いの温度差…アッパーな空気とダウナーな空気感…は、本当に両極端とでも言うべきものだと思います。その位、両者の笑いには距離がある。同じキャラクター達の"ズレ"を描くにしても、そこには非常に大きな差異が存在しているように感じられるんですね。そして、両者を隔てる一番の差異は、主人公を取り巻く人々、社会の描き方ではないかと思います。
 

 
「犬ハサ」の個性的な…という言葉を天高く飛び越えた、アクが強く濃い登場人物達のことを私は先ほど"変態"と表現をしましたが、このアニメはまさに変態して出てこない変態だらけのアニメです。しかも、その変態達というのが、自身の変態性をストレートに表に出したまま何だか楽しそうに生きている。もう、あのハイテンションなオープングアニメーションからして、意味は分かりませんがとにかく楽しそうですからね。
 
夏野も柊も映見も(そして、主人公の和人ですらも)、世間の良識や行動様式からはズレまくった人間性の持ち主ですが、それが創作の世界や会社や学校といった"社会"でキチンと自身のポジションを確保し、生きている。言うなれば、「犬ハサ」の世界というのは変態が変態のまま、世間からズレていても生きていくことができる、そして、その姿が笑いをクリエイトするという変態のユートピアです。
 

 
対して、「ワタモテ」の場合は、主人公のもこっち以外の登場人物たちをすべからく世間一般の常識や行動様式に併せて行動をできる人物として描いています。それは、親や親友に至るまで、無慈悲なくらいに徹底的に。そして、そんなマジョリティーから外れてしまった…"ズレて"しまった人間としての主人公、もこっちの日々を描いている。その結果、もこっちは、そんなマジョリティーの世界を時にはやっかみ、妬み、見下し…でも、そこに潜在的な憧れを持ち続け、その世界に近付こうとしては失敗を繰り返す人間として描写をしています。だから、もこっちは何度も挫折をして涙を流すし、幾度となく煩悶することになる。
 
「ワタモテ」は、そんな空回りをする主人公の姿がおもしろいわけです。幾ら何でも、あそこまで一人の人間が孤立してしまう世界ってなかなかない(共通の趣味や話題、感性を持つ人間だったり、自身の生き方を肯定してくれるクリエイターや作品の存在が一切描かれていない!)とは思うのですが、確かに、あの世界っていうのは現実世界で内面的な理由であれ外界的なきっかけであれ、マジョリティーの社会から切り離されてしまった人間にとっては、リアルな世界ではあると思うんです。例えば、「ワタモテ」に出てきた「友達が少ないせいで教科書を忘れてしまった時に人から借りることが出来ず授業中に孤立する」…なんてシーンは、一部の人達にとっては、かつての学校生活で経験をしたことがある、そんな普遍的な"あるある"ネタなわけじゃないですか。
 
そういう意味で考えてみたら、"ズレた"変態達にとってのユートピアである「犬ハサ」に対して、「ワタモテ」はリアリズムの世界という言い方もできるかもしれません。その世界観の違いが生み出す笑いの方向性の差。やっぱり、この2本のアニメ作品というのは、同じく"ズレた"人間を描きた作品でもコメディーの方向性が真逆で見比べてみるとおもしろい。同時期にスタートをしたアニメでありながらも、どちらもキャラクターが両極端で、だからこそ描き方のコントラストがハッキリと出てくるのではないかな、と。
 
同じ"笑い"を描いたコメディーアニメでありながら、その趣、作風は大きく異なる「犬とハサミは使いよう」と「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」。比較してみると色々とおもしろいので、是非、両作品ともご鑑賞を。