お前が辛いのはどう考えても筋肉少女帯を聴かないのが悪い! - 「ワタモテ」のブルータル

 

 
アニメ私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!がおもしろい。高校時代に特殊で偏った青春を歩んだ人間ならば、「あ〜こんなんあったあった」と思わず唸ってしまう根暗者特有の高校生活あるあるを散りばめた自虐的なネタの数々。
 
共感度の高いネタの数々に、思わず作者である谷川ニコ先生やアニメの製作スタッフさんに妙なシンパシーを感じてしまう程だ。中でも「友達が少ない故に、教科書を忘れた時に他のクラスの人に借りることができず、かといって隣の人に『教科書を一緒に見せて』の一言を言う勇気もなく、授業中に孤立」「学園祭の準備の時に、クラスメイトに馴染めず教室を抜け出すも、行くアテもなくとりあえず実行委員の単純作業をお手伝い」辺りは、日陰者の高校生活を送った者ならば鉄板の"あるあるネタ"だろう。テレビを観ながら思わず「あ〜…俺もそんなんやったなぁ…」と溜息を漏らすこともしばしば。
 
…まぁ、それでも「ワタモテ」の高校描写も自分みたいな人間からしたら全然"温い"んですけどね。ホントのホントに高校とか学校が嫌いな人間だったらね、あのね、そもそも学校に行かなくなりますから。でね、留年とかする。で、毎月毎月、金を積み立ててるから、自分が出てない卒業アルバムとか貰いますから。この世で一番いらないもんだよ、そんなもの! それで、そのまま高校を中退してドロップアウトまっしぐらな人生を送ろうとするも、親に「頼むから高校だけは出てくれ!」と泣きながら説得をされて、翌年、去年までの後輩達と一緒に机を並べて勉強することになるの。体育の授業の時に、一人だけ違う色のジャージを着てバレーボールとかやらされたりしますから。…色々あるじゃないですか! 人生、色々あるじゃないですか(泣)!!(←本格的に、高校時代に色々とあった模様)
 
…はっ! 自分のアレな高校時代の話はどうでも良いんだった。今、話をしたいのは「ワタモテ」の話だ。この「ワタモテ」。勿論、コメディアニメ(漫画)であるので、主人公が送る日々はブラックでダークではあるものの、それなりにデオドラント、ソフィスティケートされているように思う。ホントのホントに暗い青春時代を送った人間ならば、そもそも自分の過去を"笑い"にしようとか、そういう気力すら沸かないし、過去なんて振り返りたくもないですからね。と、そんな世界観の中でも、自分が特に気になるのが主人公を取り巻く環境の描写。そんなこんなで、今回のエントリでは「ワタモテ」に関するアレやコレやでエントリを更新!
 
 

■「ワタモテ」のブルータル


 
「ワタモテ」の世界で、私が最も残酷だと思うこと…それは、主人公のもこっちを取り巻く環境やアイテムに、何一つとして彼女の生き方を肯定してくれるものが存在をしていないことだ。
 
前述したように、「ワタモテ」で描かれる高校生活、ティーンエイジャーの青春は、コメディとしてギリギリのバランスで成立した"笑える"ものだと思うけれど、この部分に関しては一切の容赦がないというか、恐ろしくブルータルだな、と思う。
 
もこっちのような孤独感や生き辛さみたいなものを感じながら生きている高校生、或いは、生きていた元高校生(今、おっさん、おばさん)は世の中に沢山いる、いたと思う。そして、そんな人々の多くは、現実の辛さに打ちのめされつつも、そんな自分を肯定してくれる、救ってくれるアイテムをあたかも聖典のように抱いて生きていくことで、毎日を乗り切っているハズなのだ。
 
例えば、大槻ケンヂさんのエッセイや筋肉少女帯の音楽なんかは、そんな"根暗者"にとっての定番のアイテムの一つだろう。あるいは、ブルーハーツとか甲本ヒロトとか。あと、ビートたけしだとかダウンタウンとか。他にも、アイドルだとかパンクバンドだとか文学だとか…アメリカン・ニューシネマでもゾンビ映画でもプロレスのデスマッチでも何でもいい。とにかく、この世には"日陰者""マイノリティー"を応援してくれる、エールを送ってくれるアイテムやクリエイターが沢山、存在をしている。で、多感な高校時代というのは、こういったクリエイターや作品に大いに影響を受け、現実の厳しさに打ちひしがれつつも、一方で、自分の生き方に自信を持てるような…そんな儚くも温かい希望があってこそ、何とか毎日を乗り越えていける…ものだと思うのだ。
 
 

■お前が辛いのはどう考えても筋肉少女帯を聴かないのが悪い!

映画でも音楽でも文芸でも演劇でもお笑いでも漫画でもアニメでも何でもいい…根暗で周囲とのコミュニケーションが上手くいかない…何をやっても上手くいかないダメな自分を支えてくれるような…そういう"肯定感"を生み出してくれる、日々を支えてくれるアイテム、作り手というものが「ワタモテ」の世界では徹底的に欠けているように思う。
 
もこっちは、アニメを観て、乙女ゲームを嗜み、ネットの利用頻度が高い"オタク"型の少女として劇中で描かれているけれど、その嗜好への視点や描き方はどこか冷めている。アニメを観ては「こんなこと現実ではありえない」と呟き、乙女ゲーの声優さんに入れ込めば、それが原因で外部の人間や家族の前で恥を晒してしまう…というシビアな描写が行われている。
 
本当は、一人の人間があそこまで孤立化する世界線というのはそうそうないものだと思う。絶対に、大槻ケンヂとか甲本ヒロトとか、そういうものとの出会いが人生のどこかであるハズなのだ。でないと、人生、やり切れないと思うもの。
だけど、「ワタモテ」のもこっちには、それがない。代わりにあるのは、ネットの動画サイトとか匿名掲示板とかそんなんだ。特定の固有名詞よりも、ネットを通しての不特定多数の誰かの存在がより身近にある…というのは、もしかしたら、2000年代以降の"根暗な青春者"にとってのスタンダードなのかもしれないけれど、もういい歳をしたオッサンの自分には、その辺りのリアリティーはちょっと良く分からない。
 
ともあれ、例えば、それこそオーケンの本や音楽に、もしも、もこっちが出会っていたならば…とアニメを観ていて、いつも思う。そうすれば、もこっちも少しは自分の人生を肯定できて、自信を持って、出来もしない背伸びをしたり、プライドを守る為に自分を偽って傷つくこともなかったのではないかな、と。だって、彼女の精神性なんて、まんま「蜘蛛の糸」の歌詞とか「グミ・チョコレート・パイン」の世界観まんまじゃないですか!
 
"根暗な青春"を上手いことコメディに置き換えた「ワタモテ」だけれど、私がここまで書いてきたような点に関しては、恐ろしくシビアだし、ブルータルだなと思う。とりあえず、もこっちは大槻ケンヂさんの方を読みましょう。筋肉少女帯を聴きましょう。「で、これ、私のことを書いてるよ! 歌ってるよ!!」と共感&勘違いして、「マイノリティーでもいいんだ!」と自分の人生を肯定しましょう。話はそれからだ。
 
<筋肉少女帯 / 蜘蛛の糸>