テレビアニメの回想シーンについてアレやコレやと考える - 記憶と映画と時間軸

 

 
今回のエントリでは、テレビアニメの回想シーンについてアレやコレやと書いてみたいと思います!
 
アニメに出てくる回想シーン、記憶の描き方には様々な演出方法があるわけですが、そんな中でも自分が特に興味深く、おもしろいと思った映画のような他ジャンルの映像表現を盛り込んで時間を表現する演出技法について、ちょっと自分の考えをまとめておこうかと。
 
 

■モノクロの色彩を使った記憶の描き方

アニメの中で登場する"記憶"の表現には、しばしばアニメ以外の他ジャンルの映像文化、映像ツールとのミクスチャーが行われます。
 

 
例えば、上記の画像はテレビアニメRio RainbowGate!に登場をした回想シーンです。このシークエンスでは、登場人物の幼少期の記憶が描かれているのですが、その際に主要人物意外のキャラクター、背景がモノクロの色彩で描かれています。
 
この時、モノトーンに彩られた画面を観て、私たちはそれが描かれている時間軸が「過去」のものであることを認識します。
 
こうした色彩による時間の表現を、私たちが何故にスムーズに理解できるかいえば、それは映画の歴史そのものに劇中の時間軸を置き換えて、こういった表現を観ているからではないかと思います。
つまり、モノクロ映画や白黒テレビといった、カラー映画、カラー放送が登場する以前の映像表現の歴史を知っている私たちは、半ば無意識的に「モノクロ=過去の映像」としてこういった色彩表現を捉え、映画史としての時間軸と劇中の時間軸を照らし合わせることで、時間の流れをスムーズに理解しストーリーを読み取ることができているのではないかと思うのです。
 
即ち、アニメの中での時間の表現と、映画やテレビ放送のヒストリーそのものが、私たちの中では密接にリンクをしている。これは、個人的になかなかに興味深いトピックであるように思います。
 
もう一つ、先ほどのモノクロ表現と同じく、映画史的なエッセンスを使って回想シーンを描いたアニメ作品を取り上げてみましょう。
 
 

■フィルム、映写機をイメージした演出を使った記憶の描き方

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これは、新撰組の活躍を"幕末"という時代の流れに翻弄される女性の姿を絡めてファンタジックに描いた「薄桜鬼」の第一話で、主人公である千鶴の回想シーンを描く際に用いられた表現です。
画像では分かりづらいのですが、このシーンでは画面に走る細かいキズが描かれ、独特のニュアンスを劇中にもたらしています。そう、「映写機」「フィルム」をイメージしたセンテンスが、このシーンでは演出として使用をされているわけですね。
 
これも先ほどのモノクロによるシークエンス同様に「フィルム=過去の映像媒体」であることを私たちが先天的に認識をしていることから、このシーンが過去の時間軸に沿って描かれている回想シーンであると捉えることができているわけですが、ここでちょっと面白いのが、この「薄桜鬼」という作品が前述した通り、幕末という時代を描いた時代劇であるということです。
 
所謂"乙女ゲー"を原作としながらも、史実を忠実にストーリーに絡めて描いた本作で描かれているのは、新撰組が京の都を跋扈していた文久三年(1863年)前後の時代背景です。それに対して映画史の始まりはトーマス・エジソンが映写機の原型となるキネトスコープを発明し、それを改良したリュミエール兄弟がスクリーンに"映画"を映し出した1890年以降〜ということになると思います。
 
リュミエール兄妹がパリの地下室でスクリーンに映した機関車の映像に、観客が逃げ惑ったのが1895年…。つまり、「薄桜鬼」の時代設定は、映画がその歴史を刻み始める以前にあたるわけで、単純に歴史的な背景を考えれば、ここには大きな矛盾が存在していることになります(この辺、自分の浅薄な映画知識で書いてしまっているので、認識に誤りがあったらすいません…。もし、間違いがありましたら、ご指摘をいただけるとありがたいです)。
 
しかし、それでも私たちはこうした表現を決して違和感なく、そして時間の流れを混乱させることもなく、スムーズに時間軸の推移を理解し、ストーリーを楽しめるようになっているのです。そこには、私たちが予め持ち合わせている映像に対する知識と親和性があるからではないかと思います。
 
 

■「かんなぎ」の回想シーンと"ビデオ"という映像媒体

こうした映像媒体を使った記憶の表現や回想シーンの描き方は、モノクロや映写機の様な映画表現に属した歴史、ツールだけではありません。
例えば、アニメ版のかんなぎで使われたナギ様の回想シーン。そこでは、ビデオ的な映像表現が非常に効果的に使われていました。
 


 
一時停止、巻き戻し、テープノイズ、砂嵐…このシークエンスでは、VHSビデオを利用する際に使う様々な機能やエフェクトが、このナギ様の回想シーン(と呼んでしまうには、余りにも強烈な記憶の混濁を伴ったグル―ビーなシークエンスですが…)を観る者に強烈な印象を与えます。
 
このシーンですが、原作の漫画版ではもっとシンプルな描き方をされています。
 

<武梨えりかんなぎ」第3刊 (一迅社) P.94>
 
原作の漫画では、比較的シンプルなコマ割によって、ナギ様の記憶とその後の混乱が描かれている。このVHSビデオ的な表現は、アニメ化に際して加えられたエッセンスであり、やはりアニメという映像表現だからこそ生まれた演出だと言えるでしょう。また、このシーンにはナギ様がテレビっ子であることや、居候している仁の家にDVDプレイヤーがなく、VHSのビデオデッキしかないといったキャラクター性やストーリーのシチュエーションまでもが託されて描かれている
 
この辺は、「記憶」と「映像」という二つのテーマ、トピックをクロスオーヴァーさせてアニメ表現を考える際に、非常に興味深い描きかたであるように思います。
 
 

■まとめ

モノクロ映像やフィルム、ビデオといった映画や映像にまつわるモチーフを使い、時間や記憶を表現するアニメの演出法。
こうした演出法はどれも定番であり、またテレビドラマや実写比較的目にする機会の多いモノではありますが、それでもこういった表現に対して決して混乱せずに時間の流れを把握することができる、私たちの映像への接し方と理解の仕方には、なかなかに興味深いものがありますね。
 
私たちは、ある表現分野を観る時、そこには様々なカルチャーのヒストリーやエッセンスを無意識的に参照し、そして理解をしているのです。これも、一つのクロスオーヴァーであり、ミクスチャー。
「映画」と「アニメ」を分け隔てて考える人もいるのかもしれませんが、このように、あらゆるジャンル間の壁なんて存在するようで、実は、もっと自由で自然体で受け止められているのではないでしょうか?
 
 
 
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