「東のエデン」に感じる違和感 - アニメ、漫画作品と映画作品の差異

 
5月の終わりになっても、今季の新番は未だ「けいおん!」がその話題を独占している印象がありますが、他の作品も良作が多いですよね。4月から視聴継続中の作品が沢山あって、自分も嬉しい悲鳴を挙げていたりします。
中でも、お気に入りなのは今期のnoitamina作品である「東のエデン」です。
 
ストーリーラインの素晴らしさと、それを巧みに盛り上げる謎の数々もさることながら、映画が好きの私としては、劇中に登場する映画関係の小ネタに毎回注目をして見ています。
主人公である滝沢朗が映画館が入ったショッピングモールの中に住んでいるのを始めとして、度々映画のタイトルをが台詞の中に引用されたり、キャラクターのちょっとした所作が実は映画作品へのオマージュやパロディーになっていたり…。こういう小ネタを数多く盛り込んでくる辺りは、バンド活動を描いたアニメであるにも関わらず、実在のバンドの引用を全くと言っていいほど用いない「けいおん!」とは対照的ですよね。
 
■「けいおん!」の音楽的「物足りなさ」について考えてみる
 
しかしながら、アニメや漫画作品に映画を引用することは、なかなかにリスクが高い演出であるように思うのです。
なぜならば、他のアニメや漫画作品からの引用ならいざ知らず、「実写」による表現分野である映画を、「絵」による表現分野であるアニメや漫画作品に持ち込むことによって、違和感が生じてしまうことがあるからです。
 
現に、私は「東のエデン」を見ていて、時折違和感を感じてしまうことがあります。ちょっと、その辺、自分の感じたことを書いてみたいと思います。
 
 

■映画作品とアニメ、漫画作品の差異

先ずは、アニメや漫画の世界で映画作品を引用した際に生じた違和感の例として、大槻ケンヂ氏の小説を漫画化したコミック版の「グミ・チョコレート・パイン」をサンプルに話を進めてみたいと思います。
 
グミ・チョコレート・パイン 1 (KCデラックス)

グミ・チョコレート・パイン 1 (KCデラックス)

 
この漫画の登場キャラクターたちの姿は、基本的に下の画像のような画風で描かれています。
 

<原作:大槻ケンヂ 作画:佐佐木勝彦&清水沢亮 「グミ・チョコレート・パイン」(講談社) P.69より>
 
グミ・チョコレート・パイン」に登場するキャラクターたちは、人体や顔に漫画的な誇張やデフォルメを用いた描き方で描かれています。そして、こうした漫画表現を見慣れている私たちは、そうした表現をごくごく自然なものとして物語を読み進めていきます。
 
ところが、この漫画の中で、主人公が映画館にジーン・ハックマンアル・パチーノ主演のアメリカ映画「スケアクロウ」を観に行くシーンがあるのですが、この場面で、スクリーンに映し出される映画の登場人物たちの姿は、明らかに違うタッチで描かれているのです。デッサン的というか、より写実的に描かれています。
 

<同 P.60より>
 
こうした描き方は、漫画作品で実在の映画のワンシーンを引用する際に、よく行われているように思います。
 
しかしながら、本来ならば、この漫画のキャラクターたちと、「スケアクロウ」に出演している役者たちとは同じ次元に存在していなければならないはずです。ですから、絵のタッチに差異があるのは不自然なのです。
ですが、この漫画の中では、明らかに前者を「漫画」に、後者を「映画」に寄せて人物を描き分けています。
文字のみの表現である大槻ケンヂの原作小説では、ごくごく自然に行われていた映画の引用が、「漫画」という異なるメディアへと移行し絵が付いた途端に、実写と絵の差異がハッキリと明示されてしまったのです。
 
そして、読み手が一度こうした差異を目にしてしまうと、この漫画がフィクションであること、非現実的なものであることを強く意識してしまい、漫画が持つリアリティが消失してしまう恐れがあるのではないでしょうか?
 
このように、「映画」をアニメ、漫画の中でどのように表現するかというのは、実はとても難しいことだと思うのです。
 
東のエデン」では、こういった部分にかなり気を使って映画をアニメの文脈に取り込もうとしているように見えます。
劇中では、時に「タクシードライバー」や「DAWN OF THE DEAD(ゾンビ)」、「さらば青春の光」といった映画のタイトルがそのまま引用され、時にキャラクターの台詞や所作に「ボーン・アイデンティティー」や「グラン・ブルー」といった映画作品のニュアンスを含ませます。
ところが、映画を観る場面や映画そのものが登場する場面ってほとんどないのです。
その辺りは、上手いこと避けて、映画作品そのものではなく、ニュアンスだけをアニメの世界に取り入れているように見えます。
 
恐らく、これは映画とアニメ、漫画の違いをハッキリと意識した上で、作品を作っているからではないかと思います。
 
映画の中の登場人物を写実的に描いてしまっては、物語に登場するキャラクターの描き方にギャップが生まれてしまい、物語のリアリティーが削がれてしまいます。かといって、キャラクターに近づけるために、キャラクターデザインを担当されている海羽野チカさんのタッチで、ロバート・デ・ニーロマット・デイモンを描くのはいくらなんでも無理があります。
だから、映画のキャラクターや、映画そのものを作品内で描写することは極力避ける。
劇中で、咲がショッピング・モール内の映画館で映画を見るシーンがあったのですが、そこでもスクリーンに映っていたのはイルカの姿だけ。映画の中の人物は描かれていなかったハズです。
 
そういった差異にかなり気を使って、作品を作っているように見える「東のエデン」ですが、それでも時折違和感が生じてしまいます。
 
 

■「東のエデン」の春日晴男と「椿三十郎

例えば「東のエデン」の第6話「東のエデン」の中で、以下のような場面がありました。
 
記憶喪失で身元不明の自称実業家という怪しすぎる男、滝沢朗を巡って議論をするサークル「東のエデン」のメンバーたち。すると突然、後ろに置いてあった机(?)が開き、中からサークルメンバーの一人である春日晴男というキャラクターが登場します。
 


 
そして、妙に時代がかった台詞回し(例えば、三人称が「御仁」)で、自分の意見を述べると、他のメンバーに一括され、再び机の中に戻っていくのです。
 


 
唐突に挿入された、このワンシーン。
ここだけ、見ると何だか訳が分かりませんが、実は、このシーンには元ネタになった映画があるのです。
オリジナルの作品は、黒澤明監督の「椿三十郎」。
 
椿三十郎 [DVD]

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幕府に巣くう悪官たちの汚職を暴こうと、決起をする若侍たち。しかし、狡猾な悪官たちは先手を打ち、彼らを追い詰めます。そこへ現れるのが、口は悪いものの、凄腕の剣の達人である素浪人、椿三十郎
剣だけではなく頭も切れる三十郎は、機転を利かせて窮地に陥った若侍たちの命を救うと、その後も、その知恵と剣の腕前を活かして、未熟ながらも正義感に満ちた若侍たちに手を貸します。
不思議な魅力を持つアウトローなヒーロー、椿三十郎の胸のすくような活躍を描いた娯楽時代劇映画の傑作です。
 
そして、「東のエデン」で元ネタになったのは、次のような場面です。
 
悪官たちから、家老の奥方と娘を救出した椿三十郎と、若侍たち。この際、敵方の侍を一人捕らえて、屋敷の押入れの中に監禁します。
この敵方の侍は途中から監禁状態を解かれるのですが、侍たちと三十郎のやり取りを聞き事の真相を知り、また奥方の人柄にほだされる中で、半ば自主的に押入れの中に籠もり、ことの次第を見守ることとなります。
 
そんな中、三十郎の不遜な言動の数々に若侍の内の幾人かが不信と反感を、「自分たちのことを裏切るのではないか?」と疑心暗鬼になってしまった彼らは、三十郎を擁護する他の侍たちと言い争いを始めてしまいます。
 
すると、押入れの中でそのやり取りを聞いていた敵方の侍が外に出てきて、三十郎のことを信じるように若侍たちを諌めると、再び押入れの中に戻っていくのです。
 

<東宝DVD 「椿三十郎」より>
 
このシーン、押入れの中の侍を演じる小林桂樹さんの何とも言えない温かみのある演技もあいまって、ドラマ性とユーモアが入り混じる隠れた名場面となっています。
 
押入れが机に入れ替っていますが、「椿三十郎」では素浪人の三十郎を巡って若侍たちが、「東のエデン」では自称実業家の滝沢朗を巡ってサークルメンバーが、「素性が分からない人間を信用するか否か」という話をしている最中に、他の人物が遮蔽物の向こうから話に割って入ってくるという流れが全く一緒です。
春日の時代劇のような台詞回しも含めて、これは「椿三十郎」のワンシーンの文脈を流用したパロディー…というよりはオマージュなのだと思います。
東のエデン」で度々引用される映画のタイトルなんかの小ネタと同様に、元ネタとなった映画を知っている人にとっては、思わずニヤリとしてしまう場面です。
 
ただ、映画を知らない人には、どうのように映ったでしょうか?
 
「春日晴男」というキャラクターが、ただ単に風変わりでエキセントリックなキャラクターとして描かれているように見えてしまったのではないでしょうか?
唐突過ぎる登場の仕方といい、春日の時代がかった台詞回しといい、明らかにこのシーンは他のシーンから浮いてしまっています。
 
これもまた「映画」という「実写」による他ジャンルを、「絵」の表現分野であるアニメの世界に持ち込んだことにより生まれた齟齬と言えるのではないかと思うのです。
 
もちろん、こうした違和感はオマージュを行う側のセンスや見せ方、元ネタとなった作品が分かる、分からないという作品毎の知名度によっても変化すると思います。
現に先日の「夏のあらし!」で、大林宣彦監督の「転校生」の筋書きを換骨奪胎した「勝手にしやがれ」というエピソードが放送されたのですが、これなんて文脈が非常に自然で大変素晴らしかったです。
 
しかしながら、映画は実写であり(まぁ、アニメ映画とかCGバリバリの映画とかもありますが)、アニメや漫画作品は絵です。根本的に表現の技法や文脈が異なるので、アニメや漫画で、映画作品のパロディー、オマージュを行うことは、他のアニメ作品や漫画作品を引用するよりも、前述したような違和感が起きるリスクが高いのではないか、と思うのです。
 
 

■「東のエデン」における漫画的誇張表現の数々

下手をしたら、見ている人を白けさせてしまいかねないリスクを背負ってまで、「東のエデン」が映画の引用にこだわり続けるのか?
やはりそこには「映画」という表現分野の文脈を用いることによって、物語のリアリティの補強、強化を狙うという意図があるのではないかと思うのです。
 
東のエデン」は、現代社会の若者が持つ空気感を強く纏ったアニメ作品です。そうした物語に説得力を持たせるためには、強いリアリティが必要となります。そこで、目をつけたのが実写による表現文化である「映画」だったのではないかな、と私は思うわけです。
 
一方で、「東のエデン」は、劇中において漫画的な符号(慢符)や誇張表現の数々を多用します。
 


困ったり、ビックリしたりすると、慢符が出て…。
 

ギャグ顔で白目になったりします…。「ひだまりスケッチ」とか「あずまんが大王」みたい。
 
作品内に敢えて映画の文脈を引用しリアリティーを求めながら、同時に漫画的な誇張表現を多用する。
私は、ここにも「東のエデン」という作品が持つ違和感と、不思議な魅力を見出すのです。
(もしかしたら、こうした慢符や誇張表現は、単純にキャラクターデザインを担当されている羽海野チカさんの作風に寄せているだけかもしれませんが…)
 
東のエデン」は、本当に不思議な作品です。
劇中での数多くの謎もさることながら、アニメ作品であるにも関わらず、劇中で映画作品への言及やオマージュが頻繁に行い、映画的なリアリティーをアニメの世界に取り込もうとしながらも、一方では古典的な漫画的表現を積極的に用いています。
 
こうした試みが最終的にどのような効果をもたらすのかについては、現時点では未だ判断がつきません。
ただ、興味深いのが「東のエデン」という作品は、この先に映画版の公開が待ち構えているという事実です。
TV版で度々引用、言及してきた「映画」へのアプローチの本当の意図が、実際に映画として公開されることによって、何らかの答えが出るのではないかな、なんて私は考えています。
多少ベタかもしれませんが、部分部分で実写を用いるとか、映画版では、更に「映画」と「アニメ、漫画」の境界線をかき乱してグチャグチャにして欲しいなぁ、なんて希望も持っています。
 
そして、そこにこそ自分が「東のエデン」に感じる違和感の正体や答えがあるのではないかな、なんて。
いずれにせよ、この先のTV版の展開と、その先に待ち受ける映画版の公開が非常に楽しみです。
 
 
 
映画の引用が作中で用いられたアニメ作品といえば…。
新房昭之監督の「ぱにぽにだっしゅ!」や「さよなら絶望先生」では、度々、実写による映画作品のパロディーが行われていましたよね。
ぱにぽにだっしゅ! DVD-BOX

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そのほとんどが、あくまでギャグの文脈で使用されていたので、「東のエデン」とはまた趣が違うと思うんですけど…。
あと、個人的に印象深いには、「光と水のダフネ」です!サブタイトルが毎回映画作品を文字ってるんですよね。
こんな変な格好してるのに、何でこんなタイトルは毎回カッコいいんだろうって思ってました(笑)。
好きだったな〜、光と水のダフネ
 
 
 
<関連URL>
■もう一度お茶の間にアニメを 「東のエデン」神山健治監督