「生徒会の一存」と「ウッチャンナンチャン」 - パロディのあり方と変容について考える

 

 
テレビアニメ生徒会の一存。アニメやラノベなど、他作品のパロディ・ギャグを頻繁に劇中に登場させるアニメですが、このアニメを見ていて強く思うのが、そのパロディの特殊性です。「生徒会の一存」におけるパロディネタの数々に、私は不思議な違和感を覚えます。
今回のエントリでは、その辺りを拙いながらも自分なりに文章にしてみました。
 
 

■「生徒会の一存」におけるパロディの特徴

生徒会の一存」のパロディを理解し、「笑い」を得る為には、アニメや漫画、ライトノベル美少女ゲームなどのオタク文化に対するアーカイヴ的な知識と教養に加えて、それらを交互にクロスオーヴァーさせる能力が求められます。
 

 
例えば、第3話「取材される生徒会」では、主人公が臨死体験をするシーンで、アニメ地獄少女閻魔アイが登場するというギャグがありましたが、ここには単純に他作品のキャラクターが出てきたという可笑しみだけではなく、この第3回でメインとなる「藤堂リリシア」というキャラクターの声優が閻魔アイと同じ能登麻美子さんであるという繋がりがあります。
 
つまり、このギャグを真に理解する為には、「地獄少女」というアニメ作品や閻魔アイというキャラクターを知っているだけでは不十分で、アニメ声優の声を聞き分ける能力と、その声優に対する前知識が必要となります。
こうした、オタク的な情報のリンクができないと、「生徒会の一存」におけるパロディネタのおもしろさを理解することは、なかなかに難儀であるように思います。
 
そうしたパロディを多用する一方で、個人的に非常に興味深く思うのが、そのネタの大部分が元ネタとなる他作品からの台詞やキーワード、キャラクター、コスチュームなどの引用に終始しており、ストーリーやシナリオがパロディ化されることがほとんどないことです。
 

 
ですから劇中のパロディのほとんどは、作品のストーリー的な部分には干渉をしませんし、また元ネタとなった作品のストーリーに「生徒会の一存」というアニメが左右をされることもありません。 
 
こうしたパロディのあり方と、一昔前のアニメや漫画、映画やドラマやバラエティ番組なんかで使用されていたパロディの感覚には、非常に大きな隔たりが感じられます。
非常に個人的な印象論で申しわけないのですが、「生徒会の一存」のようなアニメ作品で用いられているキーワードや記号的な引用が目立つパロディに対して、従来のパロディというものは、もっとシナリオ面やストーリー的なものが求められていたように思うのです。
 
 

ウッチャンナンチャンのパロディ感覚

これは、90年代のコント番組なんかを比較対象にして考えていただければ分かりやすいかと思います。
例えば、90年代の初頭に、ウッチャンナンチャンがやっていた伝説のコント番組ウッチャンナンチャンやるならやらねば!」などは、そうしたパロディの代表格だと思うのです。
 
やるならやらねば」は、バブル崩壊直後、最後の灯火のように贅沢に製作資金がつぎ込まれた大掛かりで豪華絢爛なセットを舞台に、ウッチャンナンチャンの笑いのセンスが爆発した、90年代のテレビ史を語る上で欠かすことができない名物番組です。そして、この番組の中で行われていたコントで使用されていたパロディ感覚やギャグは、映画やドラマのシナリオを換骨奪胎したものが大部分を占めていたように思います。
 
番組の名物コント「ナン魔くん」は、南原清隆さんが、内村光良さん演じる怪人マモー(勿論、劇場版ルパン三世に登場する敵役のパロディ)を追いかけ、ドタバタコントを繰り広げるという内容なのですが、そこでは「ロッキー」や「スター・ウォーズ」「オーバー・ザ・トップ」といった王道のアメリカ映画や、ジャッキー・チェンブルース・リーのようなヒーローが活躍するカンフー映画、そして「青春デンデケデケデケ」のような邦画作品まで、様々な映画のパロディが用いられていました。
 

 
アチコチにギャグを挟みながら、コントは基本的に元ネタとなった映画のストーリーに準じて進んでいき、本家と同様に一旦は感動的なラストシーンを迎えます。最終的には、場面が一転し、怪人マモーが現れることで毎回ナンセンスなオチが付け加えられるのですが、「やるならやらねば」でウッチャンナンチャンがパロディの対象にしていたのは、映画やドラマのシナリオやストーリーの部分であり、そこから物語性のある笑いを作っていくという試みが行われていました。
 
また、「やるならやらねば」以前のウッチャンナンチャンのコントを見てみても、こうした映画やドラマのモチーフは頻繁に登場をします。(下の動画のコントでパロディになっているのは、マイク・ニコルズ監督、ダスティン・ホフマン主演の「卒業」)
 

 
生徒会の一存」と「ウッチャンナンチャン」。こう並べてみると、かなり突飛ですが、そこには元ネタのシナリオやストーリー性を重視し、物語としての笑いを作るパロディと、キーワードや記号の引用に特化し、物語を必要としないパロディという差異が存在し、私はそこに時代によるパロディの変遷を感じたりもします。
 
生徒会の一存」のようなパロディを多用した作品が相手にしているのはオタク層で、ウッチャンナンチャンが相手にしていたのは土曜の夜8時に晩ご飯を食べながらテレビを見ているような一般層。
テレビの前にいるターゲットも違えば、「アニメ」と「お笑い」という表現方法もメディアも異なるものなので、非常に強引で乱暴な比較であることは承知していますが、それでもこうしたパロディにおける対象への歩み寄り方の差異に、私は強く興味を惹かれます。
 
 

■まとめ

生徒会の一存」と「ウッチャンナンチャン」。両者の笑いに対する感覚の違いを比べることは、ほとんど意味を成さないのかもしれませんが、個人的な思い入れも強く、また、90年代のパロディ感覚を強く体現している代表例として、ここでは比較対象として名前を挙げさせていただきました。
 
ただ、一昔前のアニメ作品…例えば、タツノコプロの「タイムボカン」シリーズであるとか、浦沢義雄さんが脚本として参加をされた一連の赤塚アニメであるとか…を思い浮かべても、そこでパロディとして笑いの対象にされていたのは、映画やドラマ、或いは落語や浪曲のような物語のストーリー、シナリオの部分であったように思うのです。また、近年の作品でパロディを多用しているアニメ作品でも「銀魂」や「ケロロ軍曹」のように丸々一話、映画やドラマのパロディを行っているアニメは、沢山あります。
 
対して、「生徒会の一存」で用いられているパロディは対照的に、キーワードと記号の引用で完結し、ストーリーの部分は元ネタのシナリオやストーリーとは関係なく、物語は生徒会室でのキャラクターのやり取りによって進行をしていきます。
 
この違いというのが、「生徒会の一存」のパロディの中で、私が最も異質な印象を受ける部分です。
一見すると、パロディに大きく依存しているように見える「生徒会の一存」ですが、そのパロディの大部分はストーリー面での影響は全くないわけで、シナリオ面での物語性に対するパロディの依存の仕方は、非常にクールな印象を受けます。
 
当初に比べると、最近はパロディネタも減少傾向にあり、何となく見せたいモノが見えてきているような気もしますが…。とにかく、最終回まで、追いかけてみたいと思います。
 
 
 
<関連URL>
■自閉する生徒会―『生徒会の一存』、あるいは『せい☆ぞん』(EPISODE ZERO)
■生徒会の一存・けんぷファー・キディガーランドのパロディについて(WebLab.ota)